ケータイ辞書JLogosロゴ 上里村(近世)


広島県>三次市

 江戸期〜明治19年の村名。三次郡のうち。はじめ広島藩領,寛永9年三次藩領,享保5年から再び広島藩領。元和5年「知行帳」や「天保郷帳」では原村に含まれ,村名は見えない。村高は,明暦2年地詰481石余,「芸藩通志」485石(ほかに上里村新開24町),「旧高旧領」486石余。大部分は三次町の町方支配となっており,村庄屋とは別に三次町大年寄以下の町役人が置かれていた。享保7年の「三次郡覚書」では家数48・人数243。「国郡志書出帳」では69・人数257。村内寺戸の甲斐庵は赤穂義士の1人菅谷半之丞寓居の地と伝え,比熊山中腹には三次藩初代藩主浅野長治の墓がある。尾関山は中世は小丸積山と称したが,福島正則時代その家臣尾関正勝がこの山に拠ってこの地方を支配したことに由来する。三次藩時代にはこの山麓に藩主の下屋敷があり,浅野長治は山頂に発蒙閣と呼ぶ天文所を建てた。文政年間でも下屋敷跡は「紅葉椿之時ハ格別ニ景色宜敷……町内之者共弁当携ヘ遊山仕候」という行楽地になっていた(国郡志書出帳)。八幡神社は弘治3年原村救山より遷したもので,上里村・原村・三次町および東河内村の半分の氏神社であった。ほかに祇園社・牛王権現があり,禅宗浄福寺・法華宗延身寺・真宗清浄庵があった。村内京蘭寺の大根と寺戸の蕪は美味とされていた。明治4年広島県に所属。同年三次町との町方・郡方別支配を廃し,同11年三次町のうち五日市町・内町を合併。同19年三次町と改称。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7420504
最終更新日:2009-03-01




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