ケータイ辞書JLogosロゴ 上里原村(近世)


広島県>高野町

 江戸期〜明治22年の村名。備後国恵蘇郡のうち。高野山村が当村ほか8か村に分村して成立。分村の時期は,高野山村が三次【みよし】藩領となったのちの明暦年間に同藩が行った検地の時とみられるが不詳。はじめ三次藩領,享保5年からは広島藩領。村高は,明暦年間の検地215石余,「芸藩通志」「旧高旧領」ともに227石余。宝暦3年の大差出帳では戸数33(百姓本家24・浮過9)・人数139,牛14・馬9,「芸藩通志」では戸数29・人数121,牛59・馬42。牛馬の普及が目立つ。大差出帳によれば,村の広さは東西12町・南北1里32町,田17町余の斗代概しは1石7升余,畑10町余の斗代概しは僅かに3斗余,ほかに斗代概し1斗余の切畑が7町余,切畑への土免は22%。山林は百姓私有林19・入会山8のほか大万木山は藩営の鈩場や鍛冶へ木炭を供給するために一般の利用を禁止した御鉄山に指定されていた。氏神社に賀茂大明神があり,小社3・堂3があった。賀茂神社は「慶長六年辛丑,福島正則の臣尾関石見営造,浅野長治亦崇敬すること深く,神田若干を寄せたり」という(比婆郡誌)。当村を含む恵蘇郡は鈩の産出地帯として知られているが,当村内にも砂鉄を採取する鉄穴場が享保年間3か所(旧県史),慶応元年も3か所で約2万駄の砂鉄を生産して上野鈩場へ納入していた(原田氏覚書)。当村の切畑は,砂鉄採取によって造成されたものであろう。明治4年広島県に所属。翌5年小学校教導館創立。鈩生産は明治初年民間経営を経て同9年から官営広島鉱山として経営され,同16年当地区に鉄穴場が2か所あり,金屋谷鍛冶・一ノ瀬鍛冶で稼行した。同21年の戸数92・人口520。同22年高野山村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7420505
最終更新日:2009-03-01




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