朝枝村(中世)
鎌倉期〜戦国期に見える村名安芸国山県郡大朝本荘のうち朝板とも書く正和2年4月20日の関東御教書に「安芸国大朝本庄内枝村……朝板……地頭職事」と見え,当地の地頭職が吉川経高に安堵されている(吉川家文書)その後,当地などの地頭職は元応元年10月3日に吉川経高から経盛に譲渡された(同前)戦国期には,天文18年12月18日の吉川元春宛行状写に「藤左衛門尉給朝枝五反,屋敷二ケ所」と見え,境孫七郎に対して新給として宛行われている(藩中諸家古文書纂)永禄12年と推定される閏5月28日の筑前国立花城合戦敵射伏人数注文に「同中間衆」として「〈椋梨陣にて〉同一人〈右同人(佐伯源右衛門尉)見之〉〈朝枝の〉四郎五郎射之」,「〈多賀山陣にて〉同一人〈井上土佐守見之〉〈同所(朝枝)の〉二郎五郎射之」と見える(吉川家文書)年未詳9月21日の繁沢元氏書状に「朝枝之屋敷之儀,先年以来筋目之地之由候条,無異儀可遣置候」と見え,同じく11月朔日の木次土佐守書状に「御方様朝枝村今之様之御あてかいにてハ,成申間敷候」と見えている(円立寺文書)現在の大朝町大朝の朝枝に比定される
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7420529
最終更新日:2009-03-01