ケータイ辞書JLogosロゴ 穴村(近世)


広島県>加計町

 江戸期〜明治22年の村名。山県郡(もと佐西郡)のうち。古くは上穴・下穴の2か村とし,また安名村とも書いたという(芸藩通志)。広島藩領。村高は,元和5年「知行帳」では「あな村」と見え681石余,享保12年山県郡村々諸色覚書980石余,「芸藩通志」982石余,「天保郷帳」では「あな村」と見え1,004石余,「旧高旧領」982石余。戸数・人数は,山県郡村々諸色覚書677・2,296。「芸藩通志」395・2,395。「芸藩通志」によれば,広さ東西1里15町・南北3里余,牛213・馬31,舟12,農間余業に煙硝煮や杣木・板木職としての出稼,そのほか山業・紙漉がある。名勝に障子岩と障子滝,また九竅石がある。障子岩と障子滝は上原にある。岩の形は表裏とも屏風のようにそそり立ち,その高さは表が10丈・裏が6〜7尺といい,頂に1間四方の段があり,その側を滝が落下している(都志見往来日記)。九竅石は船場の太田川の中にある。この石に9つの穴がありいずれも通し穴となっており,この石穴に舟をつなぎ石上で休息したという。神社は八幡宮が3社,ほかに大城(大将)軍社,寺院は浄土真宗長光山正覚寺,もと禅宗で寛永2年浄土真宗に改宗している。この寺の僧義鏡は芸州撤学の祖という。川を挟んで山が高く地幅が狭い日陰がちの土地柄で,稲・麦の出来が悪く他村から買米をしていたという。農間余業の2割が煙硝煮で備中・備後・美作方面や萩藩領まで出稼ぎをしていた。杣木・挽木職としては九州・四国や大和・河内あたりまでの出稼ぎが3割あった。また薪は舟12艘で広島へ搬出された。享保12年の産物の年間生産高は扱苧900貫・楮2,200貫・蒟蒻玉700貫・茶1,300斤・紙350丸・薪50艘(享保12年山県郡村々諸色覚書)。紙漉人は30人余。簗が2か所あり,鮎を年間1万5,000尾漁獲していた。市が1か所あり毎月5・15・25日に開かれていたが,家数が減り定期的市立てはしていなかった。明治4年広島県に所属。同15年澄合に郵便局が設置された。同22年安野村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7420570
最終更新日:2009-03-01




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