ケータイ辞書JLogosロゴ 有田村(中世)


広島県>千代田町

 平安末期〜戦国期に見える村名。安芸国山県郡壬生荘のうち。嘉応3年正月日の伊都岐島社領安芸国壬生荘立券文に「有田村」とあり,田28町5反・畠6町5反・在家15宇・山野などが存在した(新出厳島文書)。治承4年3月日の安芸国壬生荘作田内検帳目録によれば,有田村の見作田は60町5反220歩で,うち吉光7町160歩・友松6町2反大・成富2町8反180歩・犬同丸1町8反・千与末42町6反を記している(巻子本厳島文書)。永正12年大内義興上洛の時,武田元繁が大内氏に叛した。大内義興は毛利興元に,武田元繁の属城有田城を攻めさせ,これを攻め落とした(房顕覚書・毛利家文書)。その後,有田城は吉川元経に遣わされた。「陰徳太平記」によれば,永正14年10月3日から武田元繁は「有田ノ城」を取り囲み,吉川方の小田信忠は防戦を続けていた。同年10月22日,毛利元就は救援の兵を送り,有田中井手に合戦に及び,武田元繁・熊谷元直等を敗死させた(毛利家文書・熊谷家文書)。この時,毛利方として多くの武士が感状を得ている(譜録など)。これらには「有田城」「有田要害」とあり,有田城切岸で合戦が行われたことが知られる。「陰徳太平記」では,この時毛利元就は足利義稙の御教書を得たと記す。天文19年12月13日吉川元春打渡坪付には,有田の内として重俊名田2町5反・すくら田4町2反が見え(藩中諸家古文書纂),永禄12年と思われる閏5月28日の筑前国立花城合戦敵射伏人数注文に「有田ノ弥五郎」の名が見える(吉川家文書)。また,天正19年3月のものと思われる吉川広家領地付立には,「参百貫 有田」とある(同前)。なお,年未詳6月13日の吉川元春宛行状に「有田□(之)内きやうれん田三段」が井上次郎右衛門尉に宛行われたことを記している(藩中諸家古文書纂)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7420597
最終更新日:2009-03-01




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