ケータイ辞書JLogosロゴ 有福荘(中世)


広島県>甲奴町

 平安末期〜戦国期に見える荘園名。備後国甲奴【こうぬ】郡のうち。賀茂別雷社(上賀茂社)領。郡戸・階見・郡・福田4か郷よりなる。立荘時期は不明。白河上皇が賀茂上・下両社に不輸600余町を寄進した寛治4年7月13日にさかのぼると推定される(百錬抄)。初見は,源平内乱期,院庁下文にまかせて賀茂別雷社領荘園42か所に対する武士の狼藉停止と神事用途の弁備を命じた寿永3年4月24日付の源頼朝下文案で「備後国有□(福)庄」と見える(賀茂別雷社文書)。武士の狼藉はその後も続き,文治2年9月5日,頼朝は院宣にまかせて賀茂社領への地頭の知行停止,社家への返付を下知しており,特に有福荘について土肥実平の狼藉停止を命じている(吾妻鏡)。鎌倉期に入ると,領家職・預所職は妙法院門跡領となったと思われ,延応元年12月25日尊性法親王(後高倉院守貞親王の子)から尊守法親王(土御門天皇の子)へ伝領されている(門葉記)。南北朝期になると,延元元年6月竹内次郎兼幸が当地で南朝方として挙兵しており(山内首藤家文書),また書写山東円院院主僧都が南朝方に与同した尊雅法印息子忠豪律師を北朝の文殿に提訴した文書が伝えられている(師守記貞治3年4月2日条紙背文書/纂集)。この時期の伝領関係は,応安4年3月6日勘解由小路兼綱の遺跡条々(広橋家文書/大日料6‐33)に詳しい。それによると,有福荘は,賀茂社領4か郷(郡戸・階見・郡・福田)であり,賀茂祭典侍の事について人夫を出していることからみても(兼宣公記応永23年3月10日条),本家職は中世を通じて上賀茂社であったことがわかる。4か郷のうち,郡戸・階見両郷の領家職・預所職は尊雅法印・忠豪律師と相伝したが,南朝方に与同したため没収され,勘解由小路兼綱が拝領し,一方,郡・福田両郷の領家職は忠豪律師から兼綱,預所職は時清朝臣が伝領したことが記されている。室町期になると,応永元年12月,有福郷内矢野郷が矢野左近大夫という武士に宛行われており,15世紀末には備後国守護山名俊豊から山内豊成に田総地頭分として有福が知行安堵されており(山内首藤家文書),近隣の地毘荘を本拠とする山内首藤氏の所領となっていたことがわかる。戦国期になると,尾越氏が入り有福城に拠って有福氏を称し,毛利氏から有福元貞・元久へと代々知行安堵されており,年未詳の輝元から元貞宛の安堵状に「有福四ケ村之内神戸村七拾五貫在所」が見え,天正19年の総国検地による有福源介元久宛打渡状に「百四拾弐石八斗四升〈神怒郡〉有福村」と見える(有福文書)。また当荘は熊野那智大社の旦那分であった(熊野那智大社文書)。荘内4か郷のうち,階見・郡・福田については,現在上下町階見・小堀,甲奴町福田として残るが,郡戸郷は遺称地がない。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7420608
最終更新日:2009-03-01




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