ケータイ辞書JLogosロゴ 粟屋村(近世)


広島県>三次市

 江戸期〜明治22年の村名。高田郡のうち。広島藩領。宝暦7年家老上田主水給知402石余のほか17人の相給(上田主水様御給知覚/米田家文書),「国郡志書出帳」では明知707石余,ほかが上田主水以下の給知。村高は,元和5年「知行帳」2,035石余,正徳年間の郡高帳2,039石余(高田郡史),「芸藩通志」2,040石余,「天保郷帳」2,039石余,「旧高旧領」2,040石余。戸数・人数は,正徳2年593・2,314(高田郡史),「国郡志書出帳」407・1,795,天保11年惣人数改1,714人(中村家文書)。「国郡志書出帳」によれば,村の広さは東西3里・南北2里,牛285・馬73,冬には積雪も約1尺余〜3尺もあり,水田も稲だけの一毛作田の山田が多い。当村の岡三左衛門(父は三次藩から禄100石を給される)は享保年間程朱学を唱えて幕府より招かれ儒官になったという(芸備先哲伝)。当村高谷山から産する赤目砂鉄は融点が低く需要も多く,近世期採掘された鉄穴場10,製鉄場である鈩場・鍛冶屋跡が19か所確認されている(三次市粟屋町における鉄穴遺跡/双三三次史料総覧第5編)。明治4年広島県に所属。同8年小学校興譲館と出谷舎が創立された。戸数・人口は,明治3年371・1,934,同16年529・2,685。同年の牛715・馬15。同22年市制町村制施行による粟屋村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7420627
最終更新日:2009-03-01




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