ケータイ辞書JLogosロゴ 伊加和志村(近世)


広島県>作木村

 江戸期〜明治22年の村名。備後国三次【みよし】郡のうち。明暦年間の地詰帳には「井河地」と見える。はじめ広島藩領,寛永9年三次藩領,享保5年から再び広島藩領。明知。村高は,元和5年「知行帳」,享保7年の「三次郡覚書」ともに259石余,「芸藩通志」では伊賀和志村と見え222石余,「天保郷帳」259石余,「旧高旧領」222石余。享保7年の戸数43・人数186,漆木1,300,紙漉13,渡しは屋ノ原(三次郡覚書)。「国郡志書出帳」によれば,戸数72・人数370,村の広さは東西29町50間・南北30町,牛59,神祠1,寺院2,川舟3,川梁1,土地柄は「井手掛りニ付,旱損之愁ハ」なく「北塞キニ付先ツ暖成ル方」で「生産農業一途」,農間期に多少の木炭製造を行うという。高林山蓮光寺は浄土真宗本願寺派で,寺伝によれば天正年間伊勢桑名城落城の際,城主が当国に落ち来たり,出家して天隆と称し,村内笹畑に一宇を設けたのが始まりで,のち延宝年間現在地に移ったという(作木村誌)。幕末の長州戦争では軍夫動員のほかに「関門御番所」が特設され猟師は武器持参で警備に動員されている(歳代記)。下原の天満宮は永享年間鐘を背負った亀が出現し,その「我は天満宮なり斎き祀るべし」との神託によって祀ったものという(作木村誌)。10月7日の宵宮に奉納される伊賀和志神楽は「鈴合せ」別名「やよし」と称す。明治4年広島県に所属。同6年米は不足して買入,麻・楮・藍・炭などは他所売,ただし炭は「残らず大津村鈩へ売渡」していた(三上家文書)。同7年私塾誠明館が伊賀和志尋常小学校となる。同22年作木村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7420648
最終更新日:2009-03-01




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