ケータイ辞書JLogosロゴ 泉村(中世)


広島県>久井町

 南北朝期に見える村名。備後国御調郡のうち。観応2年2月15日の足利尊氏下文(三吉鼓文書)で,波佐竹四郎二郎跡の「泉村地頭職」が三吉覚弁に宛行われている。慶長3年8月15日付の御調郡杭稲荷社御祭御頭注文写(山科文書)によれば,村内に同社の御当名が,地頭分として貞末・久年・森兼・時兼・重乗・行兼・重宗・重常,領家分として広光・末成・乗宗・為安・貞信・光長・光宗,計15名あった。このことから,当村は京都伏見稲荷社領杭荘の荘域にあり,下地中分によって村内が地頭方・領家方に分断されたものと推測されるが,三吉覚弁に与えられた波佐竹四郎二郎跡の地頭職とは,あるいは中分後の地頭方を指したものかも知れない。覚弁と同日付で三吉氏惣領の秀盛も,高洲社地頭職を与えられている(譜録)。これは観応の擾乱に関連したもので,高師直が備後を確保すべく岩松頼宥を下向させ,彼の麾下にあった覚弁らに恩賞の地を与えることにしたものであるが,その5日後の観応2年2月20日,足利直義は兄尊氏と講和を結ぶとともに高一族を滅ぼし,新たに上杉顕能を備後守護としたため,先の下文は反故同然となった。ところが,直義が尊氏息義詮と不和になり,同年8月1日北国へ逃れると,同月13日頃から備後国でも岩松頼宥による直義与党への攻撃が始まる。この両党の争いは翌文和元年まで続き,覚弁らはその間頼宥の麾下で戦った。そして文和元年10月3日に至って,ようやく幕府は留保されていた「泉村地頭職」の沙汰付けを頼宥に命じたが,戦闘が続いていたため,覚弁にそれが打渡されたのは,ようやく文和2年9月13日のことであった。その後,小文十郎以下一族の乱入があり,上京していた覚弁の訴えによって,同年12月23日幕府は改めて下地の打渡を命じている(三吉鼓文書)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7420674
最終更新日:2009-03-01




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