ケータイ辞書JLogosロゴ 伊与村(中世)


広島県>比和町

鎌倉期〜戦国期に見える村名備後国恵蘇郡地毘荘のうち文応2年2月28日の千光寺領地毘荘本郷内領家職田数目録案に「嵯峨千光寺領備後国地毘本郷内」の村として「伊与」が見えるしかし同文書は偽文書とする説もあり,嵯峨千光寺領でなくすでに蓮華王院領であったと考えられている当村はその後,伊与東村・伊与西村として史料に見える伊与東村は観応元年3月6日の蓮華王院領地毘荘内伊与東村所務職補任状から蓮華王院領であったことが知られ,伊与西村は明徳元年8月10日の延暦寺石泉院領地毘荘内領家職契約状から延暦寺石泉院領であったことが知られる文永4年10月27日の関東下知状によると山内俊家が弟時通・清俊・藤原氏女らと伊与東村など4か所をめぐって相論を起こしているが,山内氏はこののち,伊与東西の諸職を得て勢力を拡大し,建武5年2月5日「伊与東方」の地頭職が足利尊氏より山内通時ら一族に宛行われている文永7年6月13日の関東下知状では「伊与西村内半矢一色」の地頭職が山内時業から娘藤原氏亀鶴に譲渡されて,幕府から安堵されているこの半矢は現在の比和町と庄原市の境の盤の谷峠付近と思われるが,それ以前の正嘉2年12月23日の将軍家政所下文にも見え,山内重俊から時業へ譲渡された半矢一色田が安堵されている以後,地頭職は元亨4年時業の女から養子時通へ,貞和元年時通より養子通忠へ譲渡されているその後,応仁の乱で西軍に加担した山内豊成は文正2年2月3日,山名持豊から伊与西村半済を宛行われ,文明2年6月17日には伊与の半済公用反銭などを宛行われており,長享元年12月30日の山名政豊書状でも伊与地頭分を与えられていたことがわかる(以上,山内首藤家文書)このようにして最終的に当村は山内氏の所領となっていた当村域は現比和町比和・古頃・木屋原・三河内【みつがいち】に比定され,このうち伊与東村は三河内,伊与西村はその他の地域にあたるなお「芸藩通志」は比和町森脇を伊与郷に加えているが,文応2年の文書には伊与と別に「森脇」が見えることから,含まれていなかったと思われる天文14年8月7日の丑寅神主さねかね連署伊与村内神田日記には当村内の地名として,こや原・ひわ・福田などが見える(児玉文書)天正14年2月12日の山内隆通知行書立案には「伊与 森脇伍百貫〈此内百五拾貫三河内持〉」と見え(山内首藤家文書),文禄4年9月28日の山内広通付立起請文案では伊与村1,382石余,三河内527石余となっており,三河内は早く伊与から分村したと思われる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7420788
最終更新日:2009-03-01




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