ケータイ辞書JLogosロゴ 入江保(中世)


広島県>吉田町

鎌倉期〜戦国期に見える保名安芸国高田郡のうち現在の吉田町上入江・下入江付近を領域とした主殿寮領便補保文治6年4月日の主殿寮年預伴守方注進状案によれば,主殿寮の納物確保のため,新たに安芸国では,年別油3石3斗4升4合・大粮米76石4升4合を負担する地として,文治5年入江郷が便補保に設定された成立当時の入江保の作田数は6反余であった元久元年12月には入江保司らが国衙検注使の入勘を停止されたいとの申請がなされ,それを停止する旨の国司外題を得ている文永11年2月17日の入江保田畠年貢算用状によれば,当保は田数31町310歩・畠22町7反280歩・栗林7町3反半からなり,京進の所当物は米・大豆・搗栗のほか桑代・布・花紙・在家苧・宿直銭・御覧箱・雑皮・串柿・炭・薪・漆などであったこの頃までは,主殿寮が入江保の支配に直接かかわりをもっていたが,その後は代官請となり,嘉暦4年4月14日預所円行が御公事27貫文で請負っている円行は鎌倉末期から南北朝期にかけて代官職にあったが,入江保領家職を持つ主殿頭小槻氏は,毛利氏や武田氏に代官職を請負わせて年貢の京進を図った至徳4年4月8日の小槻周枝契約状によれば,毛利広内は至徳4年分の入江保領家年貢を40貫で請負契約しているが,永享2年2月10日の毛利光房譲状では,入江保は嫡子房に譲渡されているが,実際は不知行となっている永享10年6月17日足利義教は毛利房に所領を安堵し,これにより入江保は毛利氏の所領として確定したと思われる永享11年8月11日小槻晨照は元と領家年貢40貫文で契約したが,武田氏の被官馬越氏が押領しており,毛利氏は永享3年頃ようやく知行権を掌握し,文安5年12月2日に元が幕府から入江保年貢の完済を命ぜられており,代官職も回復した毛利氏は毎年40貫ないし50貫の年貢を小槻家に送進した(毛利家文書)その後,一時的に宍戸氏や馬越氏の請負とされたが,文明9年には再び毛利豊元が領家代官職に補任され,年貢高は40貫に定められていた毛利氏によって当保の京進年貢はかろうじて維持されていたが,永正8年毛利興元が京都から帰国して以後は,年貢は一切納入されなくなった(壬生家文書)
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7420792
最終更新日:2009-03-01




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