ケータイ辞書JLogosロゴ 入君保(中世)


広島県>君田村

 南北朝期〜戦国期に見える保名。備後国三次郡のうち。建武元年5月日の城頼連申状によれば,恵蘇郡踊喜村一分地頭であった頼連は宮方に属し「三吉下村并入君保等」を攻め,船上山に馳せ参じたという(毛利家文書)。次いで「社家記録」正平7年2月24日条に「吉備津宮内入君郷」とあり,吉備津宮の所管であったことが知られる(八坂神社記録上)。明応5年山名俊豊は,守護である父政豊方と入君要害において合戦,翌6年1月14日,三吉河内守被官岸本兵庫助が忠節を賞され,また山内豊通(豊成)を通しても申し送られている(芸備郡中士筋者書出)。岸本兵庫は,西入君の本亀山城主とみられる(芸藩通志)。続いて永正12年の毛利興元書状によると,石見の高橋元光が大内方として三吉氏家と合戦中,3月入君で討死している(閥閲録89)。弘治3年と推定される毛利元就自筆書状によれば,「入君七百貫」は三吉致高の隠居分1,700貫に含まれており,引き続き三吉氏の支配が認められる(毛利家文書)。なお石原・西入君の境に,文禄年間の高尾越中の居城福山城跡がある(芸藩通志・城郭大系13)。また,南の河内へ通ずる峠を防地峠というが,境界を示す牓示の転化であろう。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7420793
最終更新日:2009-03-01




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