ケータイ辞書JLogosロゴ 石成荘(中世)


広島県>福山市

 南北朝期〜戦国期に見える荘園名。備後国深津郡のうち。岩成荘とも書く。南北朝期にはすでに上村・下村に区分されていた。石成荘上村については,康安元年12月日付の沙弥道珍寄進状(冑山文庫旧蔵文書)に「備後国石成庄上村武安名」と見え,武安名内田地1町が村内浄光庵に寄進されている。また応安3年2月3日付深津郡石成荘上村武安名内即分田畠坪付(京都大学文学部蔵古文書集)も残されている。その後至徳4年閏5月21日付天竜寺領土貢注文(天竜寺文書)に「岩成上村」と見え,土貢は銭240貫317文とされている。文安4年12月24日付室町幕府管領細川勝元施行状(同前)には,天竜寺領として単に「岩成庄」と見え段銭・臨時課役の免除,守護使入部の停止が命ぜられているが,これも上村のことと思われる。なお年欠天竜寺領目録(鹿王院文書)にも「岩成庄上村」が見える。一方,貞和5年3月7日には長井聖重(田総重継)が嫡子直千に石成荘下村地頭職を譲っている。下村は南北朝初期に長井氏が勲功賞として得た新恩地だったようで,杉原国遠との相論が未解決だったため,貞和2年2月9日の長井聖重譲状には除かれている(田総文書)。その後,直千の次の能里代になって,永和3年3月10日付守護今川了俊遵行状(早稲田大学所蔵文書)や康暦3年2月日付長井能里申状案(田総文書)によれば,長井氏と宮兼信・氏兼父子との間で下村をめぐる係争が繰り返されており,応永15年10月13日付将軍家御教書(山内首藤家文書)によれば,一時宮氏の領有に帰したことがあったらしい。しかしこの後も下村は,同32年7月25日長井広里から嫡子永寿丸(時里)へ,嘉吉元年6月時里から豊里へ,文明17年2月9日豊里から好重へと,代々長井(田総)氏が相伝している(田総文書)。この間,明徳4年4月7日付備後国御料所注文(細川文書)に「一所 石成庄下村」とある。これは領家職のことらしく,文正2年2月3日山名持豊が山内豊成に乗馬供給分として下村領家分を宛行っており,文明3年7月5日にはその段銭をも給与,同17年5月13日にも山名政豊が山内豊成に乗馬供給分として下村領家分を安堵している(山内首藤家文書)。下って,天正13年7月27日付備後国品治郡岩成荘打渡坪付(渋谷文書)があるが,同19年2月11日付で備後国深津郡下村内検地打渡坪付(村山証文)があり,天正13年の坪付は上村のものと思われる。また慶長5年2月7日付で品治郡上岩成村打渡坪付および深津郡下岩成村打渡坪付(渋谷文書)があり,この頃には石成荘上・下村はそれぞれ品治郡上岩成村・深津郡下岩成村と称されるようになった。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7420802
最終更新日:2009-03-01




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