ケータイ辞書JLogosロゴ 因島荘(中世)


広島県>因島市

 鎌倉期〜室町期に見える荘園名。御調郡のうち。建久2年10月の長講堂所領注文(島田文書)に「因島 募臨時所課并預所得分,勤仕女房外居」,六条殿修理料支配状写(八代恒治氏所蔵文書)に「進物所〈在両方釣屋〉……東 備後因島庄」とある。平安末期に後白河上皇の菩提所六条長講堂の所領として立券された,因島全域を荘領とする荘園。塩の産地として知られ,年貢のかなりの部分は塩で占められた。領家(本家)職はのちに後白河上皇の女宣陽門院覲子に譲与された。鎌倉中期までに3分割され,重井荘・中荘・三津荘が分立した。3荘それぞれに北条氏一門の地頭が置かれたが,全島の地頭職は北条得宗家の所持するところであったらしい。鎌倉末期の地頭は北条泰家。鎌倉幕府の滅亡とともに闕所となったため,元弘3年11月,「備後国因島地頭職〈泰家法師跡〉」は後醍醐天皇から尾道浄土寺に寄進されたものの,杵築太郎・衣河孫五郎らの濫妨を蒙り,荘務は思うに任せなかった(浄土寺文書)。ついで,建武5年には当荘地頭職は大勝金剛供・千手供修法料所として足利尊氏から東寺に寄進された。南北朝期には,暦応年間に南朝方国人広沢五郎に率いられた生口島住人らが島内に城郭(同崎城)を構えて荘務を妨げた。康永元年,北朝方の山名氏の軍勢が同城を攻め,立てこもる大館右馬亮と城主広沢五郎を降している(鼓文書)。ついで,貞和年間には安芸国竹原荘住人左衛門尉茂重らが沼田荘の小早川氏一族の小早川氏平らと年貢を押領,観応年間には江見五郎左衛門入道道源らが当島に打入り,東寺雑掌を追出したという。東寺は収入を確保するため,在地勢力に働きかけ,貞和4年に国人杉原千代松丸を因島代官職に任じ,年貢150貫文を約束させたが,その後見人は小早川氏平であった。小早川氏一族の島内への進出は著しく,観応2年には因島地頭職は足利尊氏から小早川本宗家の貞平に給与された。東寺は頻りに幕府に訴え,貞治5年に当荘下地半分を返付され,至徳4年に至って地頭職を再寄進されることとなった。しかし嘉慶2年には貞平の子息春平が代官職を宛行われ,年貢70貫文を請負っている(浄土寺文書・東寺百合文書)。こののち,徐々に東寺の支配は有名無実となり,長禄〜寛正年間以降は全く支配が及ばなくなったとみられる。明応4年6月9日付小早川敬平書状写(閥閲録14)には「備後国因島地頭分……小泉兼弘知行地也」と,小早川氏庶流の小泉氏の知行地とされている。室町後期には因島村上氏が島内で勢力を伸長し,中荘にはその宿将宮地氏が根づいた。のち因島村上氏は小早川隆景の麾下に入り,因島・向島・田島などを安堵されている。天正19年には毛利氏から村上吉祐が「一四百参拾参石五升八合 備後国御調郡因島」を打渡された(因島村上文書)。当荘はまた,水運の便に恵まれ,備後国大田荘引付(高野山文書)によれば「一大豆卅石犬の島おゝいとのゝ舟ニ上,同(嘉吉)三年二月五日」と,尾道からの年貢積み出しに当荘の船が用いられた。「戊子入明記」では遣明船のなかに「院島熊野丸」があった。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7420810
最終更新日:2009-03-01




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