ケータイ辞書JLogosロゴ 上原郷(中世)


広島県>甲山町

平安末期〜戦国期に見える郷名備後国世羅郡大田荘桑原方のうち上原村ともいう現在の甲山町東上原・西上原に相当する永万2年2月の大田荘立券文案に「上原村田」として4町5反,「上原村畠」として1町1反が記載されている建久元年6月の僧鑁阿置文には村々別作として「上原の曽部牛」が掲げられ,また建保6年3月11日の上原村公文代供給米徴符によれば,当地は福富名など53名からなり,官物田の合計は59町2反余であった当地公文職は平安末期〜鎌倉初期には下司橘兼隆の進止下にあった建久7年に下司橘氏一族が謀反の咎によって所職を没収されると,その跡には鎌倉御家人三善康信が地頭に任じられ,当村公文には地頭又代官が充てられた貞応2年頃には赤屋郷地頭代官康種が兼任したという領家高野山と地頭三善氏はしばしば所務相論を繰り返したが,その争点の1つに地頭名の年貢未進があった宝治元年8月の大田荘地頭名所当未進注文によれば,寛元4年の「上原三村」の未進額は40石5斗余に上っているついで,正安3年に至り,地頭・領家の和与が行われて公文職は寺家の進退となった南北朝期には地頭三善氏が没落,大田荘は守護や在地武士らによって押領されることが多くなった永徳元年10月21日の守護山名時義書状によれば大田荘では半済が行われており,上原村は宇賀村とともに桑原方での寺家分とされ,久代三郎左衛門尉・神崎又三郎らが寺家代官となっていたしかし彼らは寺家の所勘に従わず,翌永徳2年9月に山名時義から下地を寺家の雑掌に沙汰付すべきことを守護代長町近江守に命じられた(高野山文書)応仁の乱以降大田荘は高野山領としての実質を失っていき,山名氏の守護領国の中に組み込まれ,明応3年3月には山名俊豊から「備後国世良郡太田庄之内上原代官職」が山内豊成に与えられている(山内首藤家文書)
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7420827
最終更新日:2009-03-01




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