ケータイ辞書JLogosロゴ 宇賀郷(中世)


広島県>甲奴町

 平安末期〜南北朝期に見える郷名。備後国世羅郡大田荘桑原方のうち。宇賀村ともいう。永万2年2月日の備後国司庁宣に「桑原郷内宇賀村」とある。同年正月,後白河院庁下文をうけた備後国司は留守所に大田荘の立券を命じたが,同2月に至り当郷を大田荘に加えて立券された。この時の大田荘立券文案には「宇賀村」として田2町,「宇賀条」として畠2反が記載されている。文治2年,大田荘は高野山に施入されたが,後白河院死後の建久5年には当郷が収公されかけたため高野山僧徒は朝廷に訴えている。建久元年6月の僧鑁阿置文には下司名として「宇賀重光三丁」,村々別作として「宇賀」が掲げられ,また建保6年3月11日の宇賀村公文供給米徴符によると,当村は秋光など27の名からなり官物田の合計は32町8反余であった。弘安10年の大田荘別作年貢注文では「一,宇賀別作〈公文代慶□注文定〉」として貞行以下5名3斗5升・3貫文の別作年貢が記載されている。建久9年の橘兼隆注進状によれば,下司得分として「宇賀村赤野村公文地頭支配」と見え,元来,当村の公文職は下司(地頭)橘氏の進止下にあった。下司橘氏一族は,建久7年に謀反のとがによって所職を没収され,その跡には鎌倉御家人三善康信が地頭に任じられた。それとともに公文職は地頭三善氏の進退となった。大田荘地頭職はのちに大田方・桑原方に二分されたが,桑原方では村々に代官を置いて支配した。天福年間頃には当村地頭代官に西忍という者が見える。鎌倉期以降,領家高野山と地頭三善氏の間でしばしば所務相論が繰り返されたが,多くは和与によって決着をみている。正安3年の和与では上原郷公文に付属して当郷公文も領家の進止とされ,高野山は乾元2年に寺町公文道空を宇賀公文に補している。嘉暦3年の和与では宇賀郷の平民分算失5反が問題となり,和与の結果2反半ずつ折半し,半分を秋光に引募り,残りは領家進止とされた。永和4年頃,国富蔵人という者が「宇賀郷秋光名」を違乱,室町幕府は太田式部丞・宮次郎左衛門尉らに命じて下地を寺家雑掌に沙汰付させている。また永徳元年10月21日の守護山名時義書状によれば,大田荘で下地半済が行われ,宇賀村は上原村とともに桑原方の寺家分とされている。この時,寺家代官久代三郎左衛門尉・神崎又三郎らは寺家の所勘に従わず,すでに高野山は所務の能力を失っていた。なお,「芸藩通志」では宇賀・小童【ひち】の両村を矢野庄と呼んでいる。戦国期には矢田元俊が上野山城(宇賀山城)に住し,廃光明寺はその菩提寺という。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7420829
最終更新日:2009-03-01




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