ケータイ辞書JLogosロゴ 歌島(中世)


広島県>向島町

 鎌倉期から見える地名。御調郡のうち。「和名抄」の歌島郷が荘園化したものと考えられる。文治6年4月19日の造大神宮役夫工米未済注文に「備後国 歌島」と見え,「家清乍為地頭,自大炊寮妨之云々,付寮可有其催也」と記されており(吾妻鏡建久元年4月19日条),大炊寮領であったことが知られる。しかし厳島神社蔵の反故裏経紙背文書によると,もともとは東宮領というから,大炊寮頭中原氏が領家職を世襲することで,次第に大炊寮領の実質を備えるに至ったのであろう。ただ鎌倉中期には伊勢神宮の御厨になっていたことが判るが(民経記寛喜3年9月12日条),その後大炊寮領に復した。南北朝期以降も,領家中原氏への年貢上進が続けられた(師守記貞和元年4月9日条)。ところで,歌島西金寺の尼僧らとその庇護者右衛門尉栄幸は,元徳2年夏,華厳経など55巻の経巻を書写し,この経巻はのちに厳島神社に奉納され,「反故裏経」という名前で今日に伝わっている。そのため,「反故裏経」の紙背文書によって,偶然にも鎌倉末期の当地の状況が詳しく知られることになった。その中の1通によれば「歌島公文兼預所知栄」は,嘉元4年頃42貫文で当地の領家方年貢を請負っており,これより先,当地は地頭・領家双方の間で下地中分がなされていたといえる。彼は,内海の交通の要衝に拠点を置き,京都や淀方面との盛んな交易によって富を得,請負代官として地位を築いていった。その交易の代表的な商品の1つに塩があった(県史)。応安4年に九州への下向の途にあった今川了俊は,歌島について,「此島にしほやくたびに,一日二日のほどにかならず雨のふり侍るといひならはしたり」と聞いている(道ゆきぶり/群書18)。製塩の盛んであった様が窺える。嘉吉3年正月14日の歌島名田畠年貢公事目録(向島西村八幡神社文書)でも,この島が塩年貢を納める荘園であったことが判る。このほかに,ひぼし・かきおけ・あらまき・鯛などの海産物,あるいはそうめん・茶・麻・苧をはじめとする農産物も,進物や商品として頻繁に京都に送られていた。鎌倉末期には,この地から,御調郡吉和郷など大炊寮領関係の年貢・商品も積み出されていたのである。また嘉元4年頃,当荘には4・5宇の酒屋があり,30貫余もの御酒年貢を納めていたことが知られる。なお「反故裏経」の料紙には,連歌の懐紙や「平家物語」の写本なども用いてあり,都の文化が盛んな交易を介して流入していた様が偲ばれる(県史)。しかも「浄土法門源流章」によると,浄土宗西山派を開いた証空の流れをくむ観蓮が,鎌倉末期に「宇多島」で浄土教を広げていた。ところで,嘉吉3年の歌島名田畠年貢公事目録は,領家方の18名の負担を書きあげたものであるが,15名は田畠と塩浜を組み合わせ,米・麦・年貢塩が課せられていた。この支配体制は,平安末期から連綿と続いていたと推定される。その後,戦国期に入っても,文明17年閏3月29日の備後国尾道権現堂檀那引注文(熊野那智大社文書)や天正16年の「輝元公御上洛日記」慶長4年頃の実報院諸国檀那帳(熊野那智大社文書)に「哥島」が見えるが,次第に「向島」と呼ばれる方が一般的となった。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7420864
最終更新日:2009-03-01




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