ケータイ辞書JLogosロゴ 内部荘(中世)


広島県>吉田町

 平安末期〜室町期に見える荘園名。安芸国高田郡のうち。「和名抄」内部郷域が荘園化したものと推察され,嘉応3年2月16日の散位藤原朝臣書状に「当国内部庄薗,此日其御倉敷被免沙汰候之由見候了」とある。荘内には厳島神官佐伯清元の所領があり,文治5年6月,領家源某は,清元の名田在家役万雑事を免除し,これを厳島神社神楽料に充てている。建久7年頃は,守護宗孝親が地頭を兼帯したが,建暦2年6月には安芸国の有力在庁官人源頼宗の系譜をひく前右兵衛尉源某が地頭となり,佐伯氏は2度にわたって雑公事免除を申請,外題安堵を得ている(巻子本厳島文書)。こののち文永4年5月29日,「内部庄内福原分国弘名田」は源頼智より千与楠御前に譲与され,元弘3年5月日の城清軍忠状に「内部庄一方地頭城大輔房僧清源」,建武元年2月22日の源頼高契約状に「内部庄中馬村地頭惣領庶子等契約条々事」,また同5年3月25日の三戸頼覚軍忠状に「内部庄内福原村地頭三戸三郎入道頼覚」と記されるなど,当荘の地頭職は荘内の村を単位に源氏一族が相伝した。彼ら一族は,南北朝期には足利尊氏方として活躍するが,観応の擾乱期を境に多くは南朝方に転じ,正平7年3月26日,三戸頼顕は常陸親王より兵粮料所として「内部庄内福原村内彦次郎頼継跡地頭職」を与えられている(毛利家文書・熊谷家文書)。また文和元年には北朝方から転じた毛利元春が内部城(吉田町小山)に拠ったが,同年5月28日,安芸守護の武田氏信軍に攻められて吉田郡山城に敗走し,次いで6月8日,郡山城も攻撃されて降伏した(吉川家文書)。このほか荘内には南朝方の熊谷直経の所領も存在したが,正平20年4月5日,足利直冬に収公され,代わりに安芸国小田郷地頭職を宛行われている(熊谷家文書)。その後応安4年3月21日,「内部庄地頭職」は,幕府より毛利元春に預置かれ(毛利家文書),同年閏3月12日,「内部庄 三戸彦七跡」,すなわち荘内の三戸彦七の所領については,幕府より小早川春平に宛行われている(小早川家文書)。康暦3年正月13日毛利元春は「内部庄内福原村」を五男の広世に譲与し,至徳3年11月25日足利義満より安堵を受けている(閥閲録8)。同じ頃「内部庄内,山手村武浦・船越」は,元春から三男広内に,また「内部庄河本村」は毛利亀若丸に譲与され,義満は同日付で広内・亀若丸にこれを安堵し,明徳3年広内は「内部庄内山手村」を子息広親に譲与するなど,こののち内部荘は毛利氏の所領となった(長府毛利文書・毛利家文書)。応永21年11月15日の毛利一家中宛伊勢神宮造営段銭請取状案に「内部庄」とあり,造営段銭を負担している(毛利家文書)。荘域は,貞和4年の内藤教泰譲状に「長田郷北限内部庄大水谷」とあり,南を長田郷(向原町)に接し(閥閲録58),史料より福原・河本(川本)・中馬・山手周辺地域(吉田町)に比定できる。また内部城の存在から吉田町小山の地域の一部も荘内に含まれ,吉田町桂も荘内であるという(高田郡史)。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7420884
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ