ケータイ辞書JLogosロゴ 上山(中世)


広島県>河内町

 鎌倉期から見える地名。安芸国豊田郡沼田新荘のうち。仁治4年2月日の安芸沼田新荘方正検注目録写に「上山九丁九反小卅歩」とあり,内訳は,除田9反小,佃と官物田をあわせて定田9丁30歩,所当米は公物と地頭分あわせて19石7斗4升5合(小早川家文書)。当地は,沼田新荘地頭小早川季平の一族信平が田屋城を築いていた。その子高平は,南北朝動乱の際南朝方として活動しており,三戸氏重書案によれば,暦応元年上山城に立てこもったが,まもなく守護代福島氏に追い落とされている(毛利家文書)。この時の上山城は,田屋城ではなく障子岳城ではないかとされている。建武5年3月27日の周防親重軍忠状によれば,上山城を出た高平らは西に向かい,石見の南朝勢と合体して大朝新庄に乱入,さらに開田荘火村山に城郭を構えたが激戦の末落城した(吉川家文書)。高平らの活動は惣領家からの独立の動きとしてとらえられるが,この後は独自の活動は見られないようで,永享3年2月10日の上山景高契約状では新庄方総領家椋梨氏に結束を誓い,嘉吉2年11月16日の小早川家庶子等連署契約状写にも,他の庶家とともに上山景高の署名があり,宝徳3年9月吉日の小早川本荘新荘一家中連判契約状の紙背傘連判にも上山賢高の名が見える。文安5年12月3日の領家納入公用目安写に上山殿御納として三貫文とあり,寛正2年10月の小早川家中使節役銭支配状に上山10貫文とある。なお,年月日未詳の小早川氏一族知行分注文には上山75貫文と見え,室町期のものとされている(小早川家文書)。天文23年10月14日の小早川隆景宛行状では「新庄上山郷之内千光寺領五貫文不入」などを飯田尊継に領掌させている(閥閲録57)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7420915
最終更新日:2009-03-01




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