ケータイ辞書JLogosロゴ 大可島(中世)


広島県>福山市

鎌倉期から見える地名備後国沼隈郡のうち鞆【とも】港入口の北に突出した陸繋島で,中世後期に陸続きとなったらしい「とはずがたり」に「とかく漕ぎゆくほどに,備後の国鞆といふ所に至りぬ,何となく賑ははしき宿と見ゆるに,たいか島とて離れたる小島あり,遊女の世をのがれて,庵並べてすまひたるところなり」と見え,本来「たいか」と称したようである南北朝動乱期の康永元年,金谷経氏ら南朝方伊予衆が,備後の北朝方と海上で衝突し,その合戦の最中突風で鞆へ吹き寄せられたため,備後の南朝方と語らって鞆を占領「大可島城」を占拠したこれに対し備後の北朝方は鞆の小松寺を拠点とし,両者一進一退の攻防が続いたやがて,四国の南朝方大将大館氏明の拠る伊予世田城が北朝方の攻撃を受けたため,伊予衆は本国へ引き上げ,そのあとは桑原重信一族が守ったが,間もなく落城した(太平記)その後,貞和5年中国探題として鞆に来住した足利直冬もここを居城としたと伝え(鞆記),以後鞆の要害と呼ばれた現在の円福寺境内が城跡である下って,天正4年足利義昭が毛利氏を頼って鞆に来住,その警固のため村上亮康が大可島に拠った近世には福山藩鞆奉行配下の遠見番所が置かれ,延宝年間には時の鐘が置かれた(あくた川のまき)幕末には海防のため大砲を据え,番所には望遠鏡を備えたと伝える(沼隈郡誌)なお陸続きとなって「みちごえ(道越)」と呼ばれた砂州上には遊郭が軒を並べていた
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7420971
最終更新日:2009-03-01




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