ケータイ辞書JLogosロゴ 大佐村(近世)


広島県>西城町

 江戸期〜明治22年の村名。備後国奴可郡のうち。広島藩領。明知方。村高は,元和5年「知行帳」653石余,「芸藩通志」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに730石余。「芸藩通志」によれば戸数174・人数761,広さは東西31町・南北1里25町,牛193・馬22。村域南部の五日市は鍛冶の町として知られた。神社は天戸神社,大佐・八鳥・平子・保田・山中5村の大氏神として信仰され,祭日には西城8か村からの参拝者も多かった。五日市土肥山の金屋子神社は天戸神社の境外摂社,三ノ谷山に鎮座していたものを文政年間に庄屋が現在地に勧請。五日市の守護神として信仰された。寺院は真宗大谷派石本山西願寺,天正8年恵蘇郡尾引村妙延寺5世祐善が禅宗正安寺として建立,享保15年五日市寺小路から現在地に移り,宝暦9年真宗西願寺と改めた。水利は三ノ谷川・深谷川・塩の谷川などのほか西城川によっており,長さ20間・高さ1丈の西城川の大井手は大佐・高尾・保田・山中・森・川鳥・田殿の7村で井手組合を組織して維持された。嘉永3年には天戸神社の石鳥居の西方に新井手が完成し,同6年には水路として全長約600mの間樋(トンネル)が開通。五日市は,文政年間には近郷の鉄山業が振るわず,鍛冶9軒は休みがちであったという(国郡志書出帳)。延宝年間の代官上坂三郎兵衛は五日市坂口の下に水牢を造り,年貢未納者を寒中に水中に押し込めたという。享保3年の百姓一揆では農民7人が処刑された。村内の滝戸奥で石綿を産し,「芸藩通志」には「綿石 大佐村,瀬戸に生ず,色翠黒にして,脈理あり,削りてよくもめば白く綿の如くなる,故石綿ともよべり」とある。明治4年広島県に所属。同8年小学校として林皎舎・換文舎を開設。同21年の戸数212・人口1,234。同22年西城村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7420990
最終更新日:2009-03-01




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