ケータイ辞書JLogosロゴ 大崎荘(中世)


広島県>大崎町

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。安芸国豊田郡のうち。大崎島荘ともいう。平安後期に大崎島(大崎上島)が荘園化したもの。建長5年10月の近衛家所領目録写(陽明文庫所蔵文書)に「京極殿領内 安芸国大崎庄」とある。藤原頼通の所領として成立し,師実(京極殿)・忠実・忠通・基実・基通と伝領されて,近衛家領となった。室町期には大崎東荘・大崎西荘・大崎中荘の3か荘に分かれた。大崎東荘は大崎東浦ともいわれ,現在の東野町,大崎中荘は大崎中浦ともいわれ,現在の大崎町中野付近にあたる。また大崎西荘は現在の木江町沖浦・明石,大崎町原田・大串付近に比定される。木江町明石の御串山八幡神社所蔵応永33年4月11日付棟札銘には「当地頭殿土倉殿平冬平 大願主高橋左京助大宅光重」とあり,沼田の小早川本宗家から出た土倉氏が西荘の地頭であったらしい。しかし応永18年4月,竹原小早川義春が次男弥二郎徳平に譲与した所領に「大崎西庄内兼行名上下」「大崎実親名」「猟浜」があり,西荘には室町期から竹原小早川氏が進出していた。ついで宝徳3年7月日付小早川位(徳平子息)譲状にも「大崎西庄内兼平名〈上下〉」「同島(大崎島)之中猟浜浦」「同島之中実親名」が見えている(小早川家文書)。猟浜は大崎上島の南岸,現在の木江町狩浜にあたる。一方,大崎中荘・東荘には小早川本宗家が勢力を伸ばしており,応永21年4月小早川則平が嫡子持平に譲った所領中に「大崎島中・東・壱岐島」があった。壱岐島は現在の東野町生野島を指す。永享5年6月日付小早川氏知行現得分注文によれば,小早川氏は「大崎島中浦」「大崎島東浦」からおのおの70貫文の得分を得たという。永享3年則平は持平を廃嫡して,あらためて弟平に所領を譲与した。このため小早川本宗家は動揺し,持平と平の間で相論が起こったが,嘉吉2年平が惣領として将軍義勝の安堵をうけ,「大崎島并領家名,同御名」の知行を認められている。ついで延徳3年8月6日付小早川敬平(平息)所領目録にも「同(安芸)国 大崎島両庄」と見える(小早川家文書)。大崎島内には小早川氏の進出以前から土豪がおり,小早川氏の領有下では公文などの職を与えられていた。東荘の望月氏,中荘・西荘の高橋氏がそれにあたる。また,小早川本宗家では有田・金山らの被官を東荘・中荘に派遣して知行していた。文明12年10月の継目安堵御判礼銭以下支配状写には「大崎中庄公文 高橋又五郎・三郎左衛門尉」「大崎東庄公文 望月又三郎」あるいは「大崎中庄御代官金山豊前守」「大崎東庄御代官有田法師」と見える(同前)。戦国期にも小早川被官人がしばしば荘内に知行を与えられている。天文8年12月には小早川本宗家の詮平(正平)が金山与三左衛門に「大崎島有田膳左衛門給」を宛行い(閥閲録95),同12年5月には「大崎中庄中居給」を真田兵衛尉に宛行っている(岩国徴古館所蔵文書)。また同21年には小早川隆景が真田大和守に中荘の知行を安堵したほか,「大崎島参貫文」を田坂与一兵衛尉に,「大崎東之庄之内,たる見田壱町畠参反」を金山右京進にそれぞれ宛行っている(田坂文書・閥閲録95)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7420993
最終更新日:2009-03-01




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