ケータイ辞書JLogosロゴ 大田荘(中世)


広島県>世羅町

 平安末期〜戦国期に見える荘園名。世羅郡のうち。皇室領,のちに高野山領。現在の世羅郡の東半分,甲山町と世羅町のほとんどを占め,世羅西町・甲奴【こうぬ】町の一部も含む。永万2年正月,平清盛の五男重衡から世羅東条内の「大田并桑原両郷荒野山河等」が後白河院に寄せられ,同年2月には「桑原郷内宇賀村」も加えて当荘が立券された。ついで,仁安2〜4年に円宗寺領戸張保が荘内に編入されるとともに「御調郡内尾道村」の田畠5町が倉敷地とされている。立券当時,後白河院が受け取る年貢は六丈布150端(当初は100端)に過ぎず,実際の荘務権は預所職を保持した重衡をはじめ平家一門の手にあった。永万2年の立券文によると,見作田は30町余,このうち諸社免田が9町余あった。また,見作畠が6町余・田代225町・畠代53町のほか在家・桑・栗林などが記載されている。荘の内部は国衙領大田・桑原両郷の系譜を引く大田方と桑原方の2地域に区分されていた。桑原方は上原・伊尾・宇賀・青近・小世良・赤屋の諸村(郷)からなり,大田方は本郷・寺町・京丸・黒淵・横坂・戸張・安田・溝熊・吉田の諸村(郷)からなる。このうち戸張以下の4郷は山中四郷と呼ばれ,在地支配の上で比較的独立性の強い地域であった。平氏滅亡ののち,文治2年5月に僧鑁阿は高野山大塔不断両界法の用途のため荘園の施入を後白河院に申請,院は当荘を高野山に寄進した。源平内乱期には大田・桑原郷司の末裔である大田太郎光家と世良荘司橘兼隆が当荘下司であり,土肥実平・遠平父子の配下となって荘内で勢力を伸ばした。光家・兼隆は門田畠と称して100町余を押領,あるいは不当な加徴米を徴収し,百姓を所従のように駆使して,荘務を妨げたというが,建久年間には内乱以前の郷司の権限にまで抑え込まれたらしい。建久元年,鑁阿は荘の再建のために検注を行った。それによると見作田は613町余,このうち除田33町余・定田580町余に上る。定田は佃12町と官物田568町余に分かれ,官物田はさらに雑事免236町余と定公事名田332町で構成されていた。雑事免は下司名などの荘官名と村々別作からなる。年貢高は建久5年鑁阿起請相折帳によれば,米1,838石2斗,ほかに胡麻・半畳・白布・桑代布などがあった。建久5年,鑁阿は荘務を大塔供僧に付すに当たって,荘を4分割し,供僧から4人の預所を選任して荘務にあたらせることとしている。建久7年,下司光家・兼隆は謀反の咎によって幕府に所職を没収され,その跡には鎌倉御家人三善康信が地頭に任じられた。三善氏の地頭としての得分は基本的に前下司の権限を継承したもので,建保5年に康信は10か条にわたって地頭の得分・権限などを置文にして定めている。建永2年8月,康信は当荘地頭職を大田方・桑原方に分かち,子息の康継・康連に譲与した。このうち,桑原方地頭は現地の支配も代官まかせの場合が多く,のちのちまで一体のものとして伝えられたが,大田方では康継の子康遠が土着し,のちには子孫によって地頭職が分割されていった。まず本郷寺町地頭と山中郷地頭に分かれ,さらに前者から京丸地頭,後者から横坂地頭が分出,文永年間頃には「村々に地頭あり」といわれている。天福年間頃から地頭と領家の所務をめぐる相論がしばしば起こる。幕府は嘉禎元年に善信(康信)の置文を守るべき旨の下知を下し,同3年に六波羅使と寺家使とで実検が行われている。その後も所務相論は続いたが多くは和与が成立した。和与によって特に桑原方では下地進止権や下級荘官職の進止権が地頭から寺家へと移譲されていった。これに対して大田方の地頭は下地進止権を確保しており,徳治2年には下地進止権が地頭にありとの関東下知状を得ている。しかし三善氏は在地への根のおろし方が弱く,元徳年間には大田方の京丸地頭・横坂地頭も下地進止権を寺家に移譲,やがて三善氏は南北朝動乱の中で姿を消した。高野山では鎌倉後期から供僧の預所に替えて,世俗的な力をもつ請負代官的な預所に荘務を任せるようになった。そのような預所として和泉法眼淵信がいる。淵信は弘安〜正安年間に20余年にわたって桑原方預所をつとめ,永仁5年には大田方の預所も兼ねた。この間,桑原方地頭との相論で幕府から寺家に有利な裁許を得るなど荘務に功績を上げた。また在地の有力名主を武士団に組織し,他荘の年貢請負に手を広げるなど,「財宝は倉に満ち,その勢いは守護も及ばぬ程である」といわれている。元弘3年,後醍醐天皇は当荘地頭職を高野山に寄進,当荘は高野山の一円支配となったが,半済などのため守護や在地武士に押領されがちであった(高野山文書)。貞治年間頃には桑原方六郷・山内四郷がほかの世羅郡の荘郷とともに天竜寺造営料にあてられることもあった(山内首藤家文書)。ついで永徳元年の守護山名時義書状によれば,大田荘では下地の半済が行われており,大田方は本郷・京丸・黒淵など,桑原方は上原・宇賀がそれぞれ高野山分とされていたことが知られる。至徳2年に至って時義は半済の停止を命じたが,すでに高野山には荘務の能力が失われていた。その後,応永2年,足利義満は改めて桑原方6か郷の地頭職を高野山西塔に寄付,ついで,同9年には幕府の口入で守護山名時が年貢1,000石で当荘を請け負ったが,永享11年までに未進額2万6,000余石に上ったという。しかし年貢は減少しながらも寛政年間までは山名氏を通じて送られた明証がある(高野山文書)。応仁の乱を境として当荘は高野山領としての実質を失い,守護領国のなかに組み込まれていった。文明7年には山名政豊から毛利豊元が荘内の山中横坂要害を与えられ(毛利家文書),また,山名俊豊は明応3年に上原代官職と桑原を山内豊成に,同5年には本郷・寺町分を山内直通に与えている(山内首藤家文書)。やがて当荘は戦国大名毛利氏の領国下に入り,「閥閲録」によれば小寺・湯浅・永末などの諸氏が毛利氏によって大田荘の地を与えられている。荘名は近世にも残り,「芸藩通志」は別迫・青近・伊尾・松崎・小谷・川尻・小世良・東上原・西上原・赤屋・本郷・甲山町・東神崎・西神崎・井折・寺町・堀越・京丸・中原・三郎丸・青山・田打・重永の23か村を大田荘というとしているが,これは必ずしも中世の荘域とは一致しないようである。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7421009
最終更新日:2009-03-01




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