ケータイ辞書JLogosロゴ 大条(中世)


広島県>豊町

 鎌倉期から見える地名。伊予国越智郡下島のうち。「古今著聞集」巻12の「後鳥羽院御時伊予国の博奕者天竺の冠者が事」に「後鳥羽院御時,伊与国をふてらの島といふ所に,天竺の冠者といふものありけり。件島に山あり。その山のうへに,家をつくりてすみけり」とあり,「をふてらの島」に呪術・療病をよくする天笠の冠者というものが住んで,当国隣国のみならず都にまで評判が届いたという。この「をふてらの島」は「をふてうの島」の誤写で当地を含む大崎下島を指すものともみられる。大崎下島は元来,伊予国の大三島神社の所領であったが,応永年間に竹原小早川氏の庶流小早川徳平が大三島社社務職の善式部少輔善麻の養子となった縁で小早川氏の所領となった。応永29年卯月22日付善善麻女姓某連署譲状写には徳平に譲られた所領として「下島内 久比浦 大条浦 興友浦」とある。この後,当地は徳平から位(円春)に譲与された。応永末年頃,大三島社が下島奪回を企てた際,円春は「下島大条之浦半分」を沼田小早川本宗家の庶流土倉氏に渡して合力を依頼した。その後,円春はこの所領の返還をたびたび求めたが,土倉氏は承諾せず,文安2年に至って「大条四分一」は返還するが,残り4分の1は「大崎」(大崎上島)から代所を出すので続けて知行したいと申し入れたという。小早川位が,宝徳3年7月に鶴市(継忠)に譲った所領中にも「伊予国三島七島之内下島之事……一大条浦」と見える(小早川家文書)。慶長年間から大長と記すようになった(国郡志書出帳)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7421029
最終更新日:2009-03-01




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