ケータイ辞書JLogosロゴ 奥屋村(近世)


広島県>東広島市

 江戸期〜明治22年の村名。賀茂郡のうち。広島藩領。明知・給知が入り交じる地。村高は,元和5年「知行帳」には奥谷村と見え,1,199石余,「芸藩通志」「天保郷帳」「旧高旧領」も同高。「国郡志書出帳」によれば,畝数145町余うち田96町余(791石余)・畑7町余(39石余)・屋敷1町余(19石余)・荒畝39町余,高348石余,戸数695(土蔵・牛屋など204)・人数1,084(男564・女520),牛152・馬70。氏神は鷺森多賀厳島二宮大明神。字岸に浄土真宗西本願寺派広島光福寺末帝釈山天楽院報専坊がある。肥飼料となる柴草が不足し,柴草の多い隣の安芸郡上瀬野・下瀬野両村から18枚の札鎌を受け,庄屋札・札鎌世話人札の各2枚は無運上,14枚を運上銀1匁5分ずつで農民に交付,札鎌は株として移動できた(国郡志書出帳)。産物は米・麦・豆類・蔬菜・木綿・松茸,寛政13年取調帳では,酒屋喜七郎の酒造高210石(西志和村誌)。寺子屋師匠に俊平・今屋恒四郎(今村氏)・川野屋五右衛門(西原氏)・上野屋留右衛門(津田氏)・門根木仙五郎(のち恕一)らが見える(西志和村誌)。「すくも塚」辺を五条と呼んでいたが,こうげ・こうもと・こうすみ・古市・下市・京免など古代官衙の存在を思わせる地名がある。明治維新の際,木原秀三郎は神機隊の本陣を七条西蓮寺,屯営を報専坊と大行寺原に置いた。藩は榎山峠に柵門を設け,神機隊に守備させた。字砥石川に鉄砲鋳造所を設けたが,明治2年工事は中止され解体された(同前)。同4年広島県に所属。同6年成心舎を創立,同10年奥屋小学校,同20年奥屋簡易小学校となる(同前)。同22年西志和村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7421164
最終更新日:2009-03-01




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