ケータイ辞書JLogosロゴ 尾道(中世)


広島県>尾道市

 平安末期から見える地名。備後国御調【みつぎ】郡のうち。尾道村・尾道浦・玉の浦ともいう。外国史料では宋希璟の「老松堂日本行録」に「小尾途津」,申叔舟の「海東諸国紀」に「尾路関」と記される。仁安3年に後白河院領大田荘下司・沙汰人らが「御調郡内尾道村田畠五町」を倉敷地として免除することを申請,翌年にはこれが認められた。ついで同年,後白河院庁下文によって村内無主荒野も開発次第に荘領に加えられることとされ,また御調南条荘の押妨を停止されている。文治2年に大田荘が高野山根本大塔領に寄進されると当地も高野山の支配下に入った。大田荘が大田方・桑原方の両地区に分かれていた関係で,尾道浦も両方に区分され,それぞれに公文(下級荘官)が置かれていたらしい。鎌倉後期には政所もあり,高野山の預所は当地を拠点とした。預所として手腕を振るった法眼淵信は一国の守護にも比肩すべき勢力を有し,尾道浦桑原方公文佐藤二郎・尾道浦百姓藤三郎入道らを配下とし尾道船を用いて伊予・長門などの荘園年貢を請負った(高野山文書)。淵信は地頭方との相論で功績を認められ,高野山から尾道浦堂崎浄土寺・曼荼羅堂(海竜王寺)別当職や堂崎別所分山野浜在家などを与えられたという(浄土寺文書)。正安3年高野山と桑原方地頭大田貞宗の間で大田荘所務について和与が行われ,当地桑原方の「堂崎別所分并平民名浦内寺社同免田畠」は「同(尾道)浦公文惣追捕」の両職とともに領家の進止となった。乾元2年の大田荘新田所当年貢注文によれば,「尾道田代桑原方分二丁五反卅ト」「尾道大田方官物田二丁五段卅ト」とあり,それぞれ分米5石余・銭1貫700文が賦課されている。この頃には,当地は瀬戸内海の重港として「船津依得其便,民烟富有」と形容され,元応元年12月には備後国守護長井貞重が代官ら数百人に当地を襲撃させ,寺社数か所と政所・民屋1,000余戸を焼き払い,大船数十艘を入れて仏聖人供以下を略奪したという(高野山文書)。港町の常として遊女なども集まったらしい(太平記巻16)。建武3年建武政権に反旗を翻して九州に下向した足利尊氏は,当地と鞆【とも】に今川頼貞・頼兼兄弟を配するとともに,浄土寺に備後国得良郷を寄進して戦勝を祈願した(梅松論・浄土寺文書)。以後,南北朝期には軍事上の要衝となり,興国3年,北朝の備後守護細川頼春が土肥三郎左衛門の守る伊予国川之江城を攻めた際,北朝方の備後・安芸・周防・長門の大船1,000余が鞆・尾道に船ぞろえしたと伝える(太平記巻22)。観応年間には足利直冬が在陣し,観応2年8月には尊氏方の岩松頼宥らの軍が直冬与党の立籠る「備後国尾道城」を攻めている(閥閲録99‐2・三吉鼓文書・浄土寺文書)。この頃,当地の北の杉原保から勢力を拡大した杉原氏が足利尊氏に従って戦功をあげ,尾道を中心とする地域を掌握した。応安6年今川了俊は「尾道領家半済」を停止し,高野山への返付を命じたが,「尾道浦太田方領家職」は杉原民部入道が押領していたという(高野山文書)。ついで応永3年には足利義満が大田荘桑原方6か郷とともに尾道倉敷を高野山西塔に寄進したが,高野山にはすでに経営の力がなく,同9年備後守護山名常(時)の請所となった(同前)。山名氏は尾道西国寺の外護者としてその勢力を誇示し,当地は同氏の支配下に入って国内のみならず対外貿易港としても発展していった。今川了俊の「道ゆきぶり」には,山麓に沿って家々が所狭く立ち並び,網を乾すほどの庭もない有様が描写され,港には奥州・筑紫の船も多く停泊していたという。朝鮮使節の船も寄港し(老松堂日本行録),また,遣明船が輸出する但馬・美作・備中・備後の赤銅は尾道に集荷された。応仁2年遣明船には「尾道住吉丸 七百斛」が入っている(戊子入明記・入明諸要例)。「兵庫北関入船納帳」によれば,文安2年中に当地の船は62回にわたって兵庫(現神戸市内)に入港しており,この内には相国寺の年貢を積んだ過書船もあった。主な積荷は備後塩で,この年だけで総計8,940石にも上った。また大田荘年貢引付(高野山文書)では,永享11年から文安4年に至る大田荘の年貢は,当地の東西に位置する堂崎・土堂・御所崎などの船で堺方面に運ばれている。室町末期の文明年間には備後守護山名政豊の子息俊豊が当地に在城したらしい(備前文明乱記)。なお宝土寺鐘の長享3年銘文に「大日本備後州御調郡栗原保尾道之浦御所崎宝土寺」,光明寺鐘の延徳4年銘文に「備後州御調郡栗原保尾道御所崎光明寺」と見え(日本古鐘銘集成),当時,尾道の一部は栗原保に含まれるようになっている。応仁・文明の乱以後,安芸の毛利氏が安芸・備後両国の国人衆を次第に家臣団に編入し,戦国大名に成長した。それとともに杉原氏もこれに組み込まれ,当地は毛利氏の直轄地とされた。すでに守護山名氏の時代,永正9年には当地に尾道奉行が置かれていたことが知られるが(小早川家文書),毛利氏治下では天正年間に代官所が置かれ,渋屋与右衛門が当地を預け置かれた。ついで,文禄4年には葛西(泉屋)一相・小川(笠岡屋)又左衛門が代官職に任じられ,当地に知行を与えられている(閥閲録遺漏3‐2・市立尾道図書館蔵文書・小川文書)。葛西・小川らは当地の豪商的存在でもあり,文禄元年には豊臣秀吉が肥前名護屋からの帰途,笠岡屋に一泊している。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7421221
最終更新日:2009-03-01




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