ケータイ辞書JLogosロゴ 尾道町(近世)


広島県>尾道市

 江戸期〜明治22年の町名。御調郡のうち。江戸期は尾道浦村とも称した。江戸初期には町場化した当地に対して後背地を尾道村と称したが,同村は寛永6年に後地村と改称。当地は毛利氏時代から久保町・十四日【とよひ】町・土堂町の3町からなり,福島氏・浅野氏も踏襲した。広島藩領。村高は,元和5年「知行帳」では「おの道村浦」と見え348石余,寛永15年地詰345石余,「芸藩通志」342石余,「天保郷帳」348石余,「旧高旧領」356石余。「芸藩通志」によれば,広さは東西10町余・南北5町余。元和5年から御調代官,正徳5年から尾道町奉行により,村方から独立して支配された。久保・十四日・土堂の3町にはそれぞれ町年寄1・組頭2・肝煎1・月行司10がおり,町政は町年寄1・組頭1・月行司3による月番制で行う。町全体で町庄屋1・年行司3・畳表見3・抜荷改め2・馬指1がおり,町庄屋は地方年貢を扱うとともに,年行司と一緒で海陸交通の事務を扱った。このほか大坂登米支配1・御蔵番人2・久保屋敷番1が藩から任命された(新修尾道市史)。町は本通りを境に上下に分かれて6区分とし,それぞれに組頭1・月行司5が割り当てられ,相互に不時の際の救援活動などの取決めがされていた。寛文11年から北前船が入港するようになった。海岸は石垣や雁木が次々と整備され,沖出しが進んだ。元禄5年には他国米買入地の指定を受け,享保12年から大坂への蔵米運搬が,それまでの請合い積みをやめ,蔵方から直接輸送することになる。明和3年問屋役場をつくり問屋株を48株と定め,安永9年には問屋座会所として問屋株を100株とした。天明2年に問屋座定法を定め,寛政2年には仲買業を特許制とした。産物としては魚類・雑口鮓・酒・酢・生渋・鉄器(農具・船具類)・石造物・木綿刺単皮・藺製品・線香・帆などがある。寛政年間の人数調査によると,総人数3,558。「芸藩通志」では,戸数2,926・人数9,488,牛2・馬10,舟235。のち町の東西,後地村域まで町並みができ,これを地方と称し土地に関するものは後地村扱い,ほかは町方支配とされた。東地方を尾崎町,西地方を御所町と称した。神社・寺院は後地村分にあっても町方支配となっている。神社は,亀山八幡神社(久保八幡神社)・艮神社・御袖天満宮・住吉神社・祇園社・吉備津彦神社(一宮社)・幸神社,寺院は,真言宗大宝山権現院千光寺・同宗米留山大山寺・同宗潮音山善勝寺・同宗摩尼山総持院西国寺・律宗転法輪山大乗院浄土寺・同宗海竜王寺(海竜寺)・同宗浄土寺山万福寺・同宗恵日山吉祥坊・曹洞宗海運山天寧寺・浄土宗清浄山宝幢院光明寺・同宗如意山光明院宝土寺・同宗日輪山金剛台院持光寺・同宗伝法山善光寺正授院・同宗得生山安楽院信行庵・同宗花林山実心寺念仏院・時宗竜灯山海徳寺・同宗尾陽山願王院常称寺・同宗無量山浄光院海福寺・同宗智月山等持院西江寺(西郷寺)・同宗欣求山安養院慈観寺・同宗来迎山正念寺・同宗生田山永福寺・同宗筒湯山薬師院水之庵・同宗礼拝山成福寺・同宗極楽寺・法華宗本覚山妙宣寺・浄土真宗遊亀山浄泉寺,修験道は浮御堂,廃寺として時宗の荘厳寺・海蔵寺・休念寺・丹花寺と禅宗の金剛寺・浄土宗の西方寺・正覚寺。文久3年富くじ興業が始まる。慶応3年芸州・長州の藩兵が駐屯し,福山藩に備える。明治元年浦上天主教信徒28名が天寧寺へ預けられる。同3年久保・十四日・土堂の3町に年寄1人のみ置く。同4年広島県に所属。同年問屋役場廃止,尾道郵便役所を土堂町に設置。同5年邏卒出張所を設置。同年の戸数5,289・人口1万7,541。同7年県支庁を置いたが翌年廃止。同9年後地村を合併,町内を尾崎・久保・十四日・土堂の4か町に区分。同年諸品会社が開業,尾道港内通用の私札を発行。同10年尾道区裁判所開庁。同11年町内4か町は尾道を冠称。同17年大阪商船の汽船寄港地となる。同21年尾道東御所町・尾道西御所町が成立。同年から尾道港内の浚渫工事を実施。同22年市制町村制施行による尾道町となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7421222
最終更新日:2009-03-01




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