小用村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。備後国三上郡のうち。広島藩領。明知方。村高は,元和5年「知行帳」390石余,「芸藩通志」436石余,「天保郷帳」428石余,「旧高旧領」436石余。「芸藩通志」によれば,戸数48・人数261,村の広さは東西13町・南北8町,「古くは,高村の内にて,小用谷とよびしともいへり」とあり,牛3・馬37,水利は溜池により篠津原池・国竹池・木船池の名が見える。神社は八幡神社。宇佐八幡宮を勧請したもので,はじめ村内の仮屋迫にあったが,天正2年宮山に移ったという。寺院には如意山竜福寺がある。元亀年間山内首藤隆通の建立と伝え,はじめ真言宗で享保3年からは臨済宗,11世住職春応禅悦は天保10年臨済宗大本山妙心寺管長に就任。同寺に春応筆の大般若経153巻,「竜福寺」の扁額が伝わる。村内最大の篠津原池は,元文5年豪雨による山崩れで埋まり,庄屋六兵衛の尽力で復旧したと伝える。古備中路が永末から入り,蟹ケ峠を越え本村から東城に達する。蟹ケ峠近くにある地蔵の位置に一里塚があったと伝える。享保年間の飢饉後,前谷または宮山の八幡宮境内に郷蔵が設けられ,明治10年頃まで残った。慶応3年頃前谷の角屋に寺子屋を開設。明治4年広島県に所属。同7年竜福寺に小学校開設。同9年大旱魃があり,水利の問題をきっかけに柳谷は高村から離れ当村に入る。同じ頃,藤の免も当村へ入る。同15年高村の地59町余を当村に編入。同19年永末村字板橋に小学校校舎落成し,日進簡易小学校と称し,通学区は永末・宮内・小用・大久保・高門の5か村,教員3・生徒数150。同21年の戸数100・人口536。同22年高村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7421246
最終更新日:2009-03-01