ケータイ辞書JLogosロゴ 開田荘(中世)


広島県>海田町

 平安末期〜戦国期に見える荘園名。安芸国安南郡のうち。八条院領。安元2年2月日の八条院領目録に「庁分御庄」として能美・可部などと並んで「開田」が見える(山科家古文書)。荘域は,建久9年の官宣旨案に荒山村南限が開田荘とあり,現在の海田町大字東海田にほぼ相当すると思われる(壬生家文書)。元暦2年7月日の相模国前取社并安芸国開田荘注文によれば,源平の争乱時には軍勢が乱入し,荘民が逃散して田畠の耕作や山仕事もできなくなり年貢の進上もとどこおることがあった(東京国立博物館所蔵文書)。文永10年3月19日の勘解由次官藤原高朝(か)奉書によれば,当時の本家は和徳門院(義子内親王)で,隣の熊野荘の圧迫を受け,当荘雑掌らが中央に訴えを起こしているが,結果は不明(壬生家文書)。以後,嘉元4年に八条院領を中心とする亀山法皇領を昭慶門院に譲ったなかに開田荘が見え(竹内文平氏旧蔵文書),正平7年4月1日には北畠親房が海田荘地頭職を高野山蓮華乗院に寄進している(高野山文書)。「大乗院寺社雑事記」明応元年2月27日条によると,当荘は聖護院門跡と興福寺の2つの領家に分割支配され,興福寺領の10名は春日社般若十六会講料所に宛てられている。また開田荘年貢の請口代官として,隣郷瀬野荒山荘の領主阿曽沼弘秀の名が見えるが,阿曽沼氏の以後の開田荘における活動は不明。当荘はその位置からして古くから軍事上の争いの舞台となってきた。南北朝争乱の時期には南朝方の拠点となっており,建武5年には火村山(日浦山)に城郭を構えた南朝方と,それを攻める北朝方との間に激しい戦闘が行われている(毛利家文書・吉川家文書)。戦国期には,天文9年の尼子氏の毛利氏攻撃に対して救援の大内方軍勢は海田に上陸して吉田に向かい(房顕覚書),毛利氏の芸州支配の進展過程においても,それに抵抗する矢野の野間氏などとの間にしばしば戦闘が行われた(毛利家文書ほか)。本来,開田荘の中心は,山間部の谷沿いに開けた地域であったが,瀬野川の河口付近に小さな港町が形成され,のちに日浦山南側の道が整備されるにつれてますます海陸の接点としての重要性を増し,江戸期には西国街道の宿駅としての海田村(海田市)が設定され,深く湾入していた海田湾が干拓されて大きな新田が生まれるに至る。一方当荘の大部分は江戸期には奥海田村となった。中世の海田湾沿岸の様子は,「道ゆきぶり」応安4年条に「(八月)晦日はかひだとかやいふ浦につきぬ,みなみには深山かさなりたり,ふもとに入海のひがたはるばるとみえ,北の山ぎはに所々家あり,こゝに廿日ばかりとゞまりて,長月の十九日の有明の月にいでゝ,しほひの浜を行程,なにとなく面白し」と描かれており,当時の面影を伝えている。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7421260
最終更新日:2009-03-01




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