ケータイ辞書JLogosロゴ 海田村(近世)


広島県>海田町

 江戸期〜明治22年の村名。安芸国安芸郡のうち。広島藩領。蔵入地。村高は,元和5年「知行帳」48石余,正徳5年1,303石余,「芸藩通志」「天保郷帳」も同高,「旧高旧領」では海田市村と見え1,304石余。戸数・人数は,正徳2年差出帳では295・1,676,「芸藩通志」563・2,708,また牛1・馬29。西国街道の宿駅でもあり,本陣に転用された御茶屋や脇本陣が設定され,幕府公用荷物の輸送にあたる天下送り役は長く千葉家が勤めた。寛文元年に庄屋のほかに年寄が置かれ,在町としての性格を強める。安芸郡の郡元として支配の拠点でもあった。「国郡志書出帳」によれば,広さは東西6町27間・南北15町35間,また「土地合砂交リニ而稲作麦作等出来立不宜方ニ被相考申候,専綿作ニ向キ申候土地合ニ御座候」とあり,村の大半を占める新開地には綿作が展開した。農間余業として綿賃繰・綿打・木綿織延などが行われ,村の半数に及ぶ浮過層を支えていた。街道沿いには商店が並び,穀物・茶・塩・味噌・醤油・酒・木綿・灯油・蝋燭・端物・小間物・干物・荒物・菓子類・草履・草鞋などが販売され,「三次・庄原・尾道辺まて広島より小間物并ニ鰹之類買出し仕,商ニ罷出候」とあるように行商も盛んであった。港には「九州又者長州予州ヨリ穀類并ニ茶・多葉粉・畳表又者からつ物・干鰯類其外色々積参」というように交易も行われていた。漁業では牡蠣が有名。寺院には浄土真宗明顕寺があり,幕末長州戦争で戦死した越後高田藩士の墓がある。神社は熊野神社,拝殿に享保2年奉納の廻船模型があり年を記するものでは全国で3番目に古いものである。藩の社倉法実施に努力した加藤友益(缶楽)は当村の庄屋を勤めた人で,その子友徳(十千)は藩儒に登用されている。明治4年広島県に所属。同20年船越村の一部を編入。同21年の戸数759・人口3,583。同22年市制町村制施行による海田市町となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7421261
最終更新日:2009-03-01




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