ケータイ辞書JLogosロゴ 風早村(中世)


広島県>安芸津町

 南北朝期〜室町期に見える村名。賀茂郡のうち。室町幕府の安堵状などでは一般に,隣接する木谷村・三津村と併せて三津三浦,あるいは単に三津村と総称された。南北朝中頃の貞治2年3月18日付小早川実義譲状に「三津村〈以木谷・三津・風早三ケ村号三津村〉」と見え,実義から息男義春に譲られている。「三津村地頭職」は,建武5年,阿曽沼師綱の知行となり,その後,延文5年に小早川実義が中国管領細川頼之から預け置かれていたが,この三津村には当村が含まれていたであろう。実義・義春以降,応永5年5月13日付小早川仲義譲状に三津村・木谷村・風早村とあるなど,当村は三津村・木谷村とともに,代々竹原小早川氏の嫡流に伝えられた。永享10年盛景の代には「三津三浦」の課役・段銭免除,守護使不入の特権を幕府から与えられ,寛正4年,弘景の代にもその特権を安堵されている。小早川弘景置文写(小早川家文書)によれば「風早・用田ハ,風早上にて候,風早手島衆上と毎度申候」などとあり,当村には竹原小早川氏の家臣(内の者)になる地侍が居た。さらに竹原小早川氏は小早川庶子家の乃美氏などを「風早代官職」に任じるなどして当村を支配したらしい(乃美古文書正写)。なお,「鹿苑院殿厳島詣記」に「十日,またこぎ出させ給,たかはら,みつ,かさはや,山地……かやうの浦々過させ給へり」とあり,康応元年3月,厳島参詣のため瀬戸内海を西へ航行した足利義満の乗船が当地を通過した。宗碩撰の「勅撰名所和歌抄出」にも風早浦が見える。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7421287
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ