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「鍛冶屋町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

鍛冶屋町(近世~近代)


江戸期~昭和40年の町名江戸期は福山城下の町人屋敷地福山城の東,北は府中町,東は今町・笠岡町,南は下魚屋町,西は深津町・桶屋町町名は鍛冶屋備後藤四郎国吉の屋敷が...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7421308]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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鍛冶屋町(近世~近代)

江戸期~現在の町名堺町通松原下ルの町天正18年豊臣秀吉の洛中都市改造によって新しくひらかれた町で,江戸初期より現町名で呼ばれたが(寛永14年洛中絵図・寛文12年洛中洛外大図),北隣の上鍛冶屋町に対して下鍛冶屋町ともよばれる(宝暦町鑑・天明6年洛中洛外大図)江戸前期の当町居住諸職商人に,鍛冶所として剃刀・小刀・はさみを作る有次・有信の名があり,また針金屋も多くあったことから(京羽二重),町名の由来がうかがえる当町西側に鉄輪の碑が現存するが,もとは東側の人家の裏に所在したもので(山城名跡巡行志),また「京雀」の「かぢや町」の項には,「又は金輪【かなわ】の町」といい,その由来は,「いにしへ物ねたみふかき女ありかしらに金輪をいただき,賀茂の明神にまうでたりしが,鬼になりてにくき人ともとりけるが,後にがうぶくせられしその塚いまこの町にあり」と記すなお金輪町は鉄輪町とも書き,町内には鉄輪塚と称する碑も伝存するという寺院に文禄2年僧了可開基の真宗大谷派大念寺がある同寺は天明8年・元治元年の大火では類焼している(坊目誌)江戸期は巽組の松下組,明治2年の町組改正より下京【しもぎよう】15番組,同5年第19区と改称,同25年第19学区に編成明治12年下京区鍛冶屋町,同22年京都市下京区鍛冶屋町となり現在に至る人口増減率(昭和40~50年)38.6%減

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鍛冶屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名西洞院通正面下ルの町南北に通る西洞院通に面する両側町寛永14年洛中絵図・寛文12年洛中洛外大図には「三丁目」,天明6年洛中洛外大図には「西洞院三丁目」と記すが,「京雀」にすでに現町名が見え,また「宝暦町鑑」には「三町目鍛冶屋町」と見える町名は,釘かすがいなどを作る鍛冶が多く当町に居住していたことに由来する(京雀)当町は地子を負担する地子屋敷町の1つ(寺内歳時記/村上文治家文書)「宝暦町鑑」によると当町に浄土真宗本願寺派得雄寺・随林寺があった「表処置録」(村上文治家文書)では,得雄寺を堂達,随林寺を一代国絹袈裟として載せるなお随林寺は西洞院町にあったともいう(府地誌・坊目誌)また町内西側には,茶人藪内紹智邸があった江戸期は西本願寺寺内町の鍛冶組明治2年の町組改正から下京【しもぎよう】19番組,同5年第23区と改称,同25年第23学区に編成明治12年下京区鍛冶屋町,同22年京都市下京区鍛冶屋町となり現在に至る西洞院通には明治38年12月京都電気鉄道の路面電車が開通したが,大正7年7月に市電に買収された世帯数・人口は,明治44年62世帯・240人,大正14年63世帯・279人,昭和40年52世帯・224人人口増減率(昭和40~50年)35.7%減...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鍛冶屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は人吉城下人吉町の一町人吉城の北西,球磨【くま】川対岸の北方に位置する近世初期の人吉城下形成に際して,文禄3年に領内各地から鍛冶職人を移住させて築いた町で(南藤蔓綿録),町名はこれにちなむ大工町・九日町などとともに城下で最も古い7町の1町江戸末期の城下侍屋敷図には那須宗悦跡地の西に「下カヂヤ町」,東に「上カヂヤ町」が見える(人吉市史)鍛冶職人は西同心鉄砲組とされ(熊風土記/肥後国誌補遺),東同心大工組とともに藩軍事力の一端を担ったものと思われ,享保8年には西同心鉄砲組59人が藩主の査閲を受けている(相良家近世文書/県立図書館蔵文書)鍛冶職人は鉄砲のほかに刀や農具・山用具を作るなど,独特の刃物製造に従事したが,現在では1~2軒を残すのみとなっている寛政元年の私領御巡見教令には,鍛冶屋町2町33間・道幅3間,屋敷数66と見える(肥後国誌補遺)明治22年人吉町の通称町名,昭和17年からは人吉市の町名となる昭和15年の世帯数156同58年末の世帯数122・人口353...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鍛冶屋町(近世~近代)
江戸期~昭和57年の町名明治5年までは1~2丁目がある江戸期は大坂三郷南組のうち明暦元年の水帳では南鍛冶町1~2丁目,元禄7年の水帳では鍛冶屋町1~2丁目と見える(南区志)なお九之助町筋之内鍛冶屋町が関町と鍛冶屋町1~2丁目の3か町に分かれたともいう(初発言上候帳面写/大阪市史5)1丁目は「堺筋より一すじ東ノ丁,中津町通南側より周防町北かハ迄」の町で(宝暦町鑑),元禄13年の大坂三郷水帳寄せ帳による家数21軒,役数24,うち無役数2(年寄・会所),人足役無役,年寄は大和屋七兵衛2丁目は周防町通南側より三津寺筋少南までの町で(同前),元禄13年の同帳による家数73軒,役数74,うち無役数2(年寄・会所),人足役無役,年寄は大和屋長兵衛明治2年大阪南大組,同12年南区,同22年からは大阪市南区の町名となる明治5年関町の一部を編入昭和55年の人口は男209・女259同57年島之内1~2丁目となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鍛冶屋町(近世~近代)
江戸期~昭和40年の町名・大字名滋賀郡のうち江戸期は俗にいう大津100か町の1つで,幕府領町名は大津築城の頃鉄砲鍛冶が居住していたことによる(大津市志)京町通り沿いに位置し,南は四宮町自治組織は京町組寺は真宗大谷派の福賢寺・善正寺東海道筋にあたり,また四宮神社に近く江戸期には繁栄していた町で,慶長年間この町に住む塩屋治兵衛がタヌキの面をかぶり町中を練り歩いたのに始まる大津祭曳山はこの町から始まった明暦2年作の西行桜狸山の天井画は大和郡山【こおりやま】藩の柳里恭の筆当町には曳山に関する最古の資料も残っている元禄8年には2寺院と町屋37軒(町絵図)慶応元年大津宿役を負担した役家39軒(大津市志)明治5年滋賀県に所属同22年滋賀郡大津町成立に伴い大津町大字鍛冶屋町,同31年市制施行に伴い大津市鍛冶屋町となり,昭和40年京町3丁目と中央3丁目の一部となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鍛冶屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名明治13年~同31年は八幡【はちまん】を冠称江戸期は八幡城下の町名吉田川の支流小駄良【こだら】川下流左岸に位置し,北は職人町,南は本町,東は殿町に接する元禄5年「城下町家帳」に,南北に通る町並みの東側9戸・西側13戸があり,町名の由来の鍛冶屋5・酒屋3・医師2・馬医師・紺屋・研屋各1・残り耕作人天保10年の家数27(うち空家8)・人数114(郡上町中人家寄惣目録)文久元年「郡上八幡町中五人組連判帳」に鍛冶屋【かじや】町は4組26人が連判している両隣の本町から職人町へ一直線であったのが,承応元年の大火で職人町と鍛冶屋町境に食い違いができ,さらに大正8年の大火後,この食い違いを除去する議を定めた(郡上郡史)とあるが,現在も少しの食い違いが残る明治4年岐阜県に所属同5年の戸数25・人口126同22年八幡町の大字となり現在に至る...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鍛冶屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名錦小路通麩屋町東入の町寛永14年洛中絵図では「鍛冶屋丁」と記されているが,「京雀」「京雀跡追」は「やをや町」としている「やをや町」と呼称されていたのは,「京雀跡追」が当町に八百屋が居住していたことを記していることに関係があると思われるまた,八百屋町が,鍛冶屋町に固定していった経過は付近に八百屋町を冠する町が2つ存在するから,おそらくそれとの混乱を避けるためと考えられる江戸期は三町組の雁金組六町に属し,20軒の軒役を負担また,祇園会に際しては菊水鉾の寄町として2斗の地ノ口米を負担した明治2年の町組改正から下京【しもぎよう】5番組,同5年第5区と改称,同25年第5学区に編成明治12年下京区鍛冶屋町,同22年京都市下京区鍛冶屋町,昭和4年中京【なかぎよう】区鍛冶屋町となり現在に至る京都の台所の一画を占める...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鍛冶屋町(近世~近代)
江戸期~昭和48年の町名江戸期は久留米城下の1町城の南方に位置し,東西に向かう小町で,北は米屋町,南は池町川に沿う地名の由来は,久留米藩旧家由緒書によると,秋山屋吉平の先祖が有馬氏に従って丹波国から下って当町に居住し,御用鍛冶であったとされ,これにちなむ「石原家記」の寛永21年の条には,「真言宗常楽寺,鍛冶屋町に建立」と町名が見える宝永年間の家数15(啓忘録抜萃),安永年間の町間数57間(筑後志)江戸末期の掛り町別当は紺屋町の砥屋であった明治17年の戸数18・人口96同22年久留米市の町名となる道幅狭い裏通りのため次第に衰微,大正14年の戸数16昭和20年戦災で全焼戦後の道路整備と池町川の補修工事で町域は縮小した同45年の世帯数4・人口14同48年一部を日吉町に編入し,残余は中央町となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鍛冶屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は柳川城下の1町外城(郭)内の北部,矢部川水系沖端川が西流する左岸に位置する町名は,藩主立花宗茂が刀剣鍛冶下坂兼光を天叟寺前に居住させ,そこに鍛冶職を集めていたことに由来する中村・檀姓の子孫が現在も居住している「柳河明証図会」に,「橋の南をかぢ屋町といふ中程西へ道あり,鬼童口といふ,南北の通り」とある慶長7年8月藩主田中吉政の三河国時代からの菩提寺浄土宗三川山光樹寺を建立(柳河年表/県史資料5)享保年間の絵図に当町の長さ109間1尺7寸5歩,道幅3間1寸とある明治11年の耕宅地9反,戸数55・人口232(県史資料2)同22年柳河町,昭和26年柳川町,同27年からは柳川市に所属同35年の世帯数53・人口258...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鍛冶屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名富小路通二条上ルの町寛永14年洛中絵図に「鍛冶屋町」と見えて以後,町名に変化はない町名の由来はさだかではないが,「京雀跡追」に当町に鍛冶が居住していたことが記されており,その関連からか「京羽二重」によれば,医学者の味岡三伯の邸宅が当町にあったことがわかるまた,「宝暦町鑑」には町の西側の大石屋某が毎年8月18日の下御霊社の祭礼に鉾を出していたという江戸期は下一条組の富小路七町組に属し,47軒の軒役を負担明治2年の町組改正から上京【かみぎよう】22番組,同5年第25区と改称,同25年第20学区に編成明治12年上京区鍛冶屋町,同22年京都市上京区鍛冶屋町,昭和4年中京【なかぎよう】区鍛冶屋町となり現在に至る...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鍛冶屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名六角通猪熊西入の町町名由来については不詳だが,当町に「鍛冶所」が集住していたことによるとも考えられる(京都大概覚書)「坊目誌」には,東を梶町,西を丸木町といい,「明治二年今名に更む」とあるが,すでに寛永14年洛中絵図に現町名の「かじや丁」の名が見えている江戸期は川西九町組の三条大宮組に属し,44軒の軒役を負担明治2年の町組改正から下京【しもぎよう】1番組,同5年第1区と改称,同25年第1学区に編成明治12年下京区鍛冶屋町,同22年京都市下京区鍛冶屋町,昭和4年中京【なかぎよう】区鍛冶屋町となり現在に至る...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

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