ケータイ辞書JLogosロゴ 金丸名(中世)


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 南北朝期に見える名田名。備後国葦田郡のうち。暦応2年10月6日の足利尊氏寄進状案によると「金丸・上山村地頭職并草村公文職」が備後国塔婆料として浄土寺へ寄進されている(浄土寺文書)。その後暦応4年10月23日の足利直義下知状によると,在庁官人の常五郎左衛門尉経康が金丸名の知行権を主張して浄土寺への寄進をやめるよう要求した。そこで,金丸名の本所領かどうか守護人細川頼春・椙原光房に問うたところ,金丸名は竹内弥二郎兼幸の跡を浄土寺に寄進されたものであることにより経康の主張は却下された(同前)。室町期には長福寺領となっていたようで,応永9年3月11日の備後葦田郡金丸名沙汰人職補任状によれば,惣二郎が沙汰人職に補任されている(長福寺文書)。そのほか「長福寺文書」には応永15年の沙弥覚勝打渡状など多くの金丸名に関連する文書が残っている。このうち同22年の将軍足利義持御判御教書からは山名時が長福寺に金丸名を寄進したこと,永享8年の将軍足利義教御判御教書からは段銭・臨時課役が免除されていたことが知られる。しかし応仁の乱前後から在地領主などによって押領されつつあった様子が宝徳4年の備後守山名宗全安堵状や延徳3年の備後守護山名俊豊書下などによってうかがえ,文明10年の足利義政御判御教書では当村は寺家へ返付されている(長福寺文書)。天文23年正月9日の湯浅五郎二郎に宛てた毛利元就・隆元連署書状に「旧冬金丸表之時早々御馳出候」と見え,毛利氏に対する湯浅氏の協力を賞されている(閥閲録104)。なお地内には田熊城跡・天神山城跡がある。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7421342
最終更新日:2009-03-01




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