ケータイ辞書JLogosロゴ 蒲刈(中世)


広島県>蒲刈町

 南北朝期から見える地名。安芸国安南郡のうち。康応元年3月の「鹿苑院殿厳島詣記」に「十日……内の海・かうしろ・ひろ・くれ・はたみ・かまかりのせと,かやうの浦々過させ給へり,此国のたか谷といふもの,舟にて参りたり,大内左京権大夫をそくまいるよし仰せられると聞ゆ」と見える。伊予国周敷郡北条郷の地頭多賀谷氏が海賊衆となり,南北朝期に北上して蒲刈島・倉橋島に本拠を移した。ここに見えるように,康応元年3月厳島参詣のため「かまかりのせと」から音戸の瀬戸に向かった足利義満一行に多賀谷某が大内義弘遅参の旨を伝えており,多賀谷氏は南北朝末期には大内氏の配下に入っていた。同書康応元年3月19日条に「安芸国かまかりに御舟とゞめらる」とあり,「鹿苑院西国下向記」康応元年3月19日条にも「其夜寅の刻ハかりに安芸国かまかりの奥に御船をかけらる」とある。また,「老松堂日本行録」応永27年7月22日条に「可忘家利」に停泊した記事があるが,これは下蒲刈島のことと思われる。「兵庫北関入船納帳」によれば,文安2年5月4日に2隻,同年5月20日に3隻,同年7月23日に2隻,同年11月27日に2隻,同年11月28日に1隻,同年12月28日に2隻などの蒲刈船が兵庫北関に入っている。当地には瀬戸内海の港があり,積荷は米・ニコミ・マメ・アツキ・布などで,豊後荷物の兵庫運送を行っていた。寛正2年6月29日の大内氏奉行人奉書に山口からの行程日数を「日高島七日……蒲刈島六日」と記し,日高島は上蒲刈島を指し,蒲刈島は下蒲刈島の呼称となっている(大内氏掟書)。大永3年8月10日の安芸東西条所々知行注文に東西条の外として「一,蒲刈島 七百貫」と見える(平賀家文書)。大永7年3月,厳島祭礼において,倉橋多賀谷氏の警固衆が神領衆と争って数人討たれ,救援にかけつけた蒲刈多賀谷兵部少輔も風雨のなかで水死する事件があり(房顕覚書),倉橋・蒲刈両多賀谷氏の緊密な関係がうかがわれる。当地は室町期から戦国期にかけては大内領国に含まれ,多賀谷氏の支配下にあったが,弘治元年の厳島合戦で多賀谷氏は敗れ,以後は小早川氏の支配下となった。弘治3年8月16日の安芸国安南郡蒲刈島神田坪付によれば,田戸八幡神田・三ノ瀬厳島領など当地に神田9貫66文があった(広島大学所蔵蒲刈島文書)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7421357
最終更新日:2009-03-01




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