ケータイ辞書JLogosロゴ 河戸村(中世)


広島県>千代田町

 平安末期〜戦国期に見える村名。安芸国山県郡のうち。嘉応3年正月日の伊都岐島社領安芸国壬生荘立券文に記された壬生荘四至の北限は,「春木谷并志野坂川戸村訓覔郷堺」とあり,牓示の1つは壬生荘の艮方猪子坂峰并川戸村西堺にうたれていた(新出厳島文書)。乾元2年7月26日の六波羅御教書によれば,田所資賢の訴えを受けて,公廨田と雑免所当米の抑留停止が,「河戸村一分地頭」に命ぜられている(藤田精一氏旧蔵文書)。鎌倉期の安芸国衙領注進状には,「河戸村二分方八丁七反大卌歩」「同村一分方四丁二反半廿歩」とあり,ともに「平田押領」と記され,平田氏が地頭であったと思われる。また,公廨田に田所氏の仮名今富・弥富が見られることから田所氏と関係深かったものと思われる(田所文書)。正平6年10月3日の常陸親王令旨には,「河戸村国衙分〈一分,二分〉」とあり,兵粮料所として,田所信高に宛行われている(芸備郡中士筋者書出)。享徳2年12月30日,管領細川勝元は,河戸村を吉川経信と争っていた綿貫光資に与えるよう武田信賢に命じ,翌年正月11日に沙汰付けられた(閥閲録126)。康正2年6月1日の武田信賢書状に「河戸村之内国衙分」,翌日付の氏名未詳書状に「河戸村国衙事」とあり,吉川元経に預け置かれている(吉川家文書)。一方,綿貫左京亮は,文明8年9月19日,河戸総領職を嫡孫長松丸に譲った(同前)。大永4年3月5日の吉川氏奉行人連署宛行状は,「北方内阿(河)戸」を給分として3町1反を石七郎兵衛尉に,その死後享禄4年4月28日吉川興経は遺領を石七郎三郎に宛行っている(藩中諸家古文書纂)。天文19年2月16日,吉川元春は河戸の内生田9反半等を井上春勝に,河戸内石クロ9反大等を黒杭与次に(同前),柏村四郎兵衛尉に河戸之内六呂原内いちふ田1町,同年3月13日に河戸之内実正田1町を宛行った(吉川家文書別集)。翌天文20年3月3日には武永四郎兵衛尉に河戸の内田1町が宛行われている(同前)。永禄4年と思われる3月11日の吉川元春自筆書状に「大朝新庄河戸之衆」と見え(二宮家旧蔵文書),永禄12年と見られる閏5月28日の筑前国立花城合戦敵射伏人数注文に,河戸の彦四郎らが見え,元和3年4月23日の吉川広家功臣人数帳にも「川戸ノ彦十郎」らの名がある(吉川家文書)。天正19年3月のものと思われる吉川広家領地付立に,「参百貫 河戸」と見え(同前),同年11月19日,河戸村の田2町5反330歩,畠5反小,屋敷4か所あわせて14石5斗7升2合が増原元之に打渡された(譜録)。翌日付の河戸村打渡坪付には,すな原・三反田・ついち・はい谷・奥はい谷・めうと岩・むねひろ・大倉・猿岩・かきだ畠の地名が見える(閥閲録遺漏1‐2)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7421555
最終更新日:2009-03-01




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