ケータイ辞書JLogosロゴ 神辺(中世)


広島県>神辺町

 戦国期に見える地名。備後国安那郡のうち。建武年間には備後の守護所が置かれたと伝えられ(備後古城記/備後叢書),以後中世末まで備後の政治・経済の一中心地であった。戦国期は神辺城主山名氏の所領であったが,天文7年,大内義隆が銀山城主(福山市山手)の杉原忠興(理興)に命じて尼子方の山名忠勝を滅ぼし,かわって杉原を神辺城主とした(三備史略)。これより杉原は山名を称す。同10年備後が大内氏の分国となると,義隆は「神辺城主山名宮内少輔」に備後外郡を宛行うが,翌12年大内氏の出雲尼子攻めが失敗すると,忠興は大内氏と訣別し,尼子氏の本城である富山城に入った(譜録)。ここに同年暮より大内氏の神辺城攻撃が開始される(新裁軍記)。天文15年12月22日付の乃美小太郎宛大内家奉行人連署奉書によれば,忠興は一時大内氏に降伏したが(浦家文書),再び離反したため同16年より大内氏は山名攻めを再開,毛利元就ら安芸国衆にも動員を促して翌17年,神辺城総攻撃を命じた。戦いは6月2日より20日にかけて行われ,なかでも18・20日の戦いは城中になだれこんでの激戦となった(閥閲録41・52・56・58・74・78・109・145・146・168など,吉川家文書)。また,この戦いには大内氏より杉甲斐守・弘中隆兼・小原隆言が検使として派遣されていた(閥閲録104)。大内氏は小原・弘中の両氏に「神辺表稲薙之儀」を命じている(同前77)。しかし執拗な攻撃にもかかわらず城は落ちず,大内軍は翌18年4月6日,ついで16・17日にも神辺城を攻め,17日の戦いでは安芸国衆平賀氏の兵に多くの死者を出した(同前79・147,平賀家文書)。このほか同18年11月15日付の小早川隆景知行宛行状にも「神辺表動」とある(三原志稿5/三原市史)。こうしたなか天文18年9月7日付の元就返書によれば,神辺城が落城目前であることが譜代家臣福原貞俊から伝えられ(福原文書),9月8日付平賀弘保宛陶隆房書状に「神辺一着以後(家督について)可被相定候」とあり,8日の時点でも神辺攻めは続けられたが(閥閲録124),ついに同月,城は落城,山名忠興は尼子をたよって出雲に敗走した。その後,毛利氏の勢力が拡大すると,忠興は毛利氏に帰属し,弘治年間頃,ふたたび神辺城を与えられたが,同3年忠興の死去後は,一族の杉原盛重が神辺に入城し,元就の姪を妻とした。盛重の屋敷跡は,天別豊姫神社付近と伝える。永禄7年頃から盛重は伯耆尾高泉山城主となり,神辺には所肥後守を城代として置いたが,永禄12年8月3日,備後の藤井皓玄らに城を奪われた。このため同月7日,毛利軍は神辺を攻め,10月城を奪還した(同前53・56・138,因島村上文書,桂岌円覚書),天正10年織田信長の先鋒羽柴秀吉が備中侵入を図り,毛利輝元は,3月15日までに神辺に出陣するよう熊谷就真に命じ,4月5日井原元尚に「神辺在番」を命じるなど防衛強化につとめた(閥閲録40・127)。本能寺の変を機に羽柴秀吉と講和すると,毛利氏は大規模な領土の画定交渉を行い,毛利領外となる境目周辺の領主層の退城を促した。備中加茂の城主であった伊賀家久も退城後「神辺領之内」で給地を宛行われている(閥閲録29)。こうしたなかで杉原盛重の子息元盛・景盛兄弟(伯耆在国)の内紛が発生し,同12年,輝元は神辺に譜代家臣の国司元武・児玉元兼・兼重元続らを派遣するとともに,神辺在番の井原氏らに杉原氏の神辺城代であった所肥後守と相談し違乱狼藉のないよう命じている(横山文書・閥閲録40)。この内紛を機に杉原氏の所領は削減され(閥閲録64),天正12年9月18日付の杉原景保書状によれば,神辺城には盛重の末子景保が入城,10貫を法道寺に寄進している(法道寺文書)。一方杉原氏から収公した所領は毛利氏の直轄領となり(閥閲録64),天正13年,輝元は神辺のうち10貫を伊勢神宮に,10貫を厳島神社に寄進している(贈村山家証文・厳島野坂文書)。このうち伊勢神宮領は,惣国検地終了後の同20年正月29日,毛利より改めて神宮に打渡され,年欠の伊勢神宮領覚書にも「拾石 備後神辺」とある(村山証文・贈村山家証文)。また厳島社領も同17年11月10日付の厳島社従往古社家内侍拘分付立に「祝師知行之分」として「備後神辺 一,十貫目 新御寄進」とあり(野坂文書),年欠の厳島社家内侍方田帳にも「祝師給〈宮内 地之御前 備後神辺〉一廿四石六斗八升」とある(厳島野坂文書)。このほか輝元は,同13年11月25日「於神辺五十貫之地」を林善右衛門尉に,同14年12月3日「神辺之内,岩成 藪路 坂田賦残之内を以弐拾貫之地」を児玉元信に,同18年3月12日「神辺之内三十貫目」を長松三四郎にそれぞれ宛行い(譜録),幕府からも神辺周辺に御料所(幕府直轄領)の設定を要請されている(年未詳10月朔日付真木昭光書状/小早川家文書)。「神辺は郡山同前候,つねづね之大事候」と輝元が述べていたように,神辺城は,本城安芸郡山城とならぶ毛利氏の重要な支城であり(閥閲録66),杉原氏を神辺城主とする一方で,輝元は譜代家臣の桂元綱父子などを在番させた(同前20・毛利家文書)。更に天正19年以降は,杉原氏を出雲仁多郡に転封させて元就八男の元康を入城させ,元康は安那郡1万石余を中心に備後に1万5,000余石を領した(八箇国御時代分限帳)。中世の神辺は江戸期の川南・川北村域にあたり,さらに深津郡岩成・藪路・坂田周辺までを含んでいた。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7421590
最終更新日:2009-03-01




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