ケータイ辞書JLogosロゴ 吉舎村(中世)


広島県>吉舎町

 室町期〜戦国期に見える村名。備後国三谿郡のうち。木佐とも記す。「芸藩通志」は,吉舎・清綱・丸田・雲通・辻・吉舎川内・檜・三玉・海田原・矢井・敷地・矢野地の12村が吉舎荘であったとしており,12村のうち吉舎村は江戸期には吉舎本村とも単に本村とも呼ばれていた。吉舎大慈寺の宗綱語録の玉渓慶瑜禅尭尼廿五回忌の法語に,「永享三年二月七日,備后州三谷郡吉舎村居住,藤氏沙弥宗和」と見える。ついで文明3年6月16日の尾道西国寺不断経修行勧進并上銭帳に,吉舎衆が「代百疋〈アカ井坊修師山〉栄真」と定め置かれており,真言系寺坊の存在が知られる(西国寺文書)。大慈寺大般若波羅蜜多経の599巻奥書に後筆で「奉施入吉舎村八幡宮,明応二年〈癸丑〉九月二十九日 願主守近善秀禅門」と記されており,当初は吉舎村八幡宮に施入されていた。広沢氏から分かれた和智氏は吉舎南天山城を居城とし,出雲尼子氏,安芸毛利氏の勢力の間で一族を分出,備北に国人領主制を展開させた。永正12年,尼子方の高橋元光が三吉氏によって三次郡入君で討死した際,毛利興元は東隣の田総好里に和智誠春への援兵を求めている(閥閲録89)。また永正15年毛利氏が世羅郡赤屋陣に攻められた時,吉舎からも越中守が出張している(同前67)。天文22年,備後へ南下を始めた尼子氏に対し,三若旗返城主江田隆連が与同したので,大内氏は毛利氏をして平賀氏ら芸備国衆を促して吉舎山中へ出陣させた(同前104)。和智誠春・元家兄弟は,その後も毛利氏に従って転戦したが,永禄6年毛利隆元の頓死に際し毒殺の疑いをかけられ,永禄12年初頭,厳島に誅殺された。高田郡高田原高林坊に残る銅鐘陰刻銘によれば,「右志者為備州木佐住人和智金吾真春公法名仁峰永義禅定門 永禄十二己巳正月念四日於厳島社頭生害」と記されている。この頃の吉舎は毛利氏の定留宿所となっており,国衆やその妻女が「吉舎御宿」に逗留したことが窺える(同前99)。そのほか慶長4年5月書写の廊之坊潮崎稜威主諸国檀那帳に,「きさ先達長蔵寺」が見える(熊野那智大社文書)。艮神社の天文9年棟札に「大願主南天山城主藤原朝臣和知伊豆守豊郷」とあり和智氏奉納の甲冑を蔵す。明治初年焼失した同社の古額は後鳥羽上皇の宸翰とも伝える(芸藩通志)。臨済宗仏通寺派善逝寺は南天山初代城主和智資実の創建と伝え,本尊木造釈迦如来像は応安2年2代城主和智師実が寄進したもの(胎内銘)。同宗同派大慈寺は応永28年4代城主和智氏実創建で,開山は仏通寺愚中の高弟宗綱。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7421603
最終更新日:2009-03-01




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