吉舎村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。三谿郡のうち。吉舎本村・本村ともいう。広島藩領。村高は,元和5年「知行帳」では本村と見え705石余,寛文3年地詰706石余,「芸藩通志」706石余,「天保郷帳」でも本村と見え706石余,「旧高旧領」706石余。戸数・人数は,宝暦11年の御巡見様御通筋覚書219・835,「国郡志書出帳」215(百姓168・寺3・社家1・医師2・職人7・浮過34)・846。「国郡志書出帳」によれば,当村は三谿郡内では数少ない蔵入地となっており,村の広さは東西8町・南北5町,牛112・馬20,神社は艮神社・祇園神社・切目王子権現・大山社・稲荷社・清正公大神儀,寺院は臨済宗善逝寺・大慈寺のほかに浄土真宗臨川山明覚寺,吉舎八勝として古城南天山霞・善逝寺山桜・天王山天王社夜灯・明覚寺臨川山蛍・大山積雪・大慈寺広沢山月・丑寅社牛虎社御霊川・郷中間来池芹をあげている。当村は備後南部尾道からのびる石見路(赤名越)の宿駅となっており,伝馬17匹が常置され,享保6年の万指出帳控によると七日市(長3町20間・家数48)・四日市(長1町・家数20)の2つの町筋があり,村役人とは別に町役人がいた。町の中心には表14間半で379坪のお茶屋のほかに「御銀蔵」とよぶ建物があった(広島藩御覚書帖/県史近世資料編)。石見国大森銀山産出の銀・銅の一部は毎年秋石見路(赤名越)を下り尾道港から上方へ積み出されるのをためしとし,三次宿と甲山宿の中間に位置する吉舎駅は昼休所とされていたが,ときには当地で1泊した。産出額が激減したといわれる近世後期でも「毎年十一月上旬両度通行」「馬数両度ニ三百余……夫凡八拾人但用遣役人添,尤年ニ寄増減御座候」とあった(国郡志書出帳)。毎年4月1日から7日間開かれた「四月市」(新暦では五月市)は近在に知られた田植前の市で,宝暦2年3月大仙神社勧請を記念して,3月24日〜4月1日牛馬市が開かれたのが起源という(後藤家覚書)。明治4年広島県に所属。同8年善逝寺に博成館が開設,住職を教師としたが,服膺館・発蒙舎と校名・校舎をかえ,同11年吉舎学校になり,同13年隣村清綱村との連合小学校となったのち,翌年吉舎小学校になった。同13年村内有志は御調【みつぎ】郡三原町で漢学塾を開いていた高浦豊太郎を招いて漢学塾日彰館を開き,同21年まで存続した。同年の戸数は306・人口1,401。同22年吉舎村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7421604
最終更新日:2009-03-01