ケータイ辞書JLogosロゴ 北(中世)


広島県>美土里町

 戦国期に見える地名。安芸国高田郡のうち。天文11年7月14日の岡就栄宛毛利元就知行宛行状に「北内田壱町壱段半下兼国名・田六段吉宗名」とあり,当地の田1町7反半は,岡就栄の給地であった。就栄は,元亀3年閏正月4日元就・隆元(元就嫡子)の証判に任せて輝元(元就嫡孫)からも同地を安堵されている(閥閲録96)。また山手(吉田町)常楽寺の住持となっていた毛利元就の異母弟就勝が,のち還俗して北姓を称しており,弘治3年に死去するまで当地を領していたらしい(近世防長諸家系図綜覧)。また,元就落胤の二宮就辰も年時未詳だが元就から「北之内つね安名併いやのかいち名三石弐斗足」を宛行われており,天正4年6月7日,給地の安堵を輝元に求め,これを許可されている(閥閲録64)。このほか同8年9月26日,吉川元春(元就次男)は,家臣小野三郎右衛門が小野助之進に譲与した「北之内南谷田弐町四段,屋敷壱ケ所併居屋敷壱ケ所谷大向」を安堵している(藩中諸家古文書纂)。また同9年12月12日の村山家檀那帳に「北之分」として仁保元棟殿・同御かミさま・太方さま・小田棟綱殿・井上若狭殿若子の名前が記載されている。なお,城跡が3か所あり,桜尾山は代々桜井氏が居城していたが,当主が九州で大友氏との合戦に討死したのちには,石見の小笠原長雄が入城,姓を中村と改めて居城したという。小城は桜尾城の出丸と思われる。飛地山田にある山田城は,山田孫右衛門が城主であったという。地内の金井谷に曽根の森がある。毛利元就の弟北就勝の屋敷のあった所であろうか,この森は毛利様と呼ばれているという。柏尾山の西南麓にある曽我比丘堂は,曽我十郎祐成の妾大磯の虎に関る伝承をもっている。郭谷山は地内の南石見路沿いにあり,伝えによると和泉式部が京都から石見国柿ノ本へ行く途中に,郭公の歌を詠んだという。尼子道というものがあり,天文年間に吉田を急襲しようと尼子氏が開いた間道といわれ,また陣ケ内という所があり,これは毛利氏が尼子氏を攻める際に宿陣した場所という。地内の市は石見路に沿い来女木・川根方面への往還の要衝であり,胡子社が勧請されているところから,古くは交通の要として栄えていたかと思われる。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7421610
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ