ケータイ辞書JLogosロゴ 木梨荘(中世)


広島県>尾道市

 南北朝期〜室町期に見える荘園名。備後国御調【みつぎ】郡のうち。建武3年5月20日付足利尊氏袖判下文(福山志料)に「備後国本郷庄木梨庄地頭職事」とあり,当荘地頭職が杉原彦太郎信平に宛行われている。また木梨家先祖由来書(木梨亮一氏所蔵/新修尾道市史)に引かれた建武3年3月4日付足利尊氏袖判下文などによれば,信平の弟杉原又次郎為平に「備後国木梨庄半分地頭職」が宛行われ,翌年12月にこれが安堵されている。信平・為平兄弟は備後国南部の豪族杉原氏の庶家筋にあたるが,足利尊氏の西走に従って筑前国多々良浜合戦などで軍忠を尽くし,その勲功の賞として当荘などを与えられた。信平の一流は南北朝期に惣領家を凌ぐ勢力を扶植し,信平の孫光盛の子息元盛・行勝の代には当荘に本拠を置く木梨杉原氏と福田荘高須社の高須杉原氏に分かれた。室町期の「康正二年造内裏段銭并国役引付」には「拾弐貫三百七十五文……杉原彦四郎殿〈備後国木梨庄段銭〉」と見え,当荘は備後国に散在する杉原氏一族の所領の中で最も高額の段銭を課せられている。ついで,明応4年7月に,前将軍足利義材が「備後国木梨庄〈杉原下総守同名修理亮知行〉」を吉見義隆に宛行った。しかし当時,義材は京都を追われて越中国にいたから,この措置は実効がなかったのであろう。さらに,文亀2年6月には将軍足利義澄が小早川扶平に杉原下総守の討伐を命じて,当荘を含む杉原氏所領の給与を約束している(小早川家文書)。こののちも木梨氏の当荘支配は続き,大永年間頃には木梨陸恒が南下してきた尼子氏と結んで勢力の拡大を計ったが,大永7年大内氏の反撃を受けた(閥閲録67)。毛利氏の時代になると,木梨陸恒の後裔と考えられる杉原隆盛が活躍した。隆盛は天文21年頃小早川隆景と兄弟契約を結んだほか,弘治3年2月2日付毛利氏親類衆年寄衆并家人連署起請文にも名前を連ねている(閥閲録53・毛利家文書)。隆盛の子息元恒も毛利氏麾下にあり,杉原氏の当荘支配は同氏が周防に移る文禄4年まで続いたと考えられる(閥閲録53・木梨家先祖由来書)。「芸藩通志」によれば,江戸期には木梨村・木梨山方村・小原村・梶山田村・市原村の5か村を木梨庄と総称した。中世の荘域は不明であるが,現在の尾道市木ノ庄町木梨を中心とする地域にあたる。三原浦も荘域に含まれたとする説もある(三原市史)。なお現在の尾道市木ノ庄町木梨に杉原氏の拠った鷲尾山城(鷲城・霊鷲城・釈迦ケ峰城)があり,放射状連郭式の遺構が残る(城郭大系13)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7421637
最終更新日:2009-03-01




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