ケータイ辞書JLogosロゴ 杭荘(中世)


広島県>久井町

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。備後国御調郡のうち。「勘仲記」正応6年8月4日条に,雑許評定の1か条として「一,稲荷社領杭庄下司職事」とある。京都の伏見稲荷社領で,下司職が問題となっていた。当荘にも伏見稲荷の分霊が勧請されていたが,慶長3年8月15日付の御調郡杭稲荷社御祭御頭注文写(山科文書)によると,同社御当の「名」は近世村の江木・下津・吉田・莇原【あぞうばら】・和草・泉・羽倉の7か村域に広がっており,荘域はこの範囲と推定される。また,御当の名は地頭分・領家分それぞれ48名が数えられ,江木・莇原・和草地域の名は地頭分のみ,羽倉地域は領家分のみ,下津・吉田地域は多くが領家分,泉地域は地頭分の数が多い,という分布状態を示している。これはかつての下地中分の名残であろうと考えられる。南北朝期の文和2年12月,恩賞として当荘内の「泉村地頭職」を得ていた三吉覚弁は,小文十郎以下の一族が同所に打ち入り押領したと幕府に訴えている(三吉鼓文書)。ついで応安4年4月16日,下向の途中尾道に留まっていた九州探題今川了俊は,安芸守護も兼ねたため,前守護武田氏の麾下にあった熊谷直氏に当荘まで出頭するよう命じている(熊谷家文書)。下って明応2年,奉公衆として在京していた小早川敬平は,帰国の折,稲荷神社神主から公用銭108貫文で当荘の代官職を請負い,同年閏4月16日に戦乱の時節であることを理由に65貫文の上納を約束している(小早川家文書)。なお,備後守護山名俊豊は明応4年11月22日に山内直通に対して父豊成の遺跡を安堵したが,同5年10月21日の山名俊豊加判知行目録によれば,その中に「杭半済」も含まれていた(山内家文書)。また,備後国内を俊豊と争っていた山名政豊方の江田宗実らは,当荘の社家分・半済を与えることを条件に小早川弘平を誘引している(小早川家文書)。小早川敬平が当荘代官職を請負う以前に,領家方の半分は守護山名氏が半済と号して山内豊成に宛行い,残りの社家分からも満足な年貢収納が望めない状況にあったと推測できる。代官職はこの後も沼田小早川氏のもとに留められたようで,同興平は大永元年11月27日に社家分のうち長楽寺などを仏通寺塔頭正法院へ寄進した(仏通寺正法院文書)。天文17年3月15日の毛利元就書状(閥閲録46)によると,「杭公文分諸役」を小寺元武が竹原の小早川隆景のもとに送り,元就がそれを了承している。新たに勢力下に取り込んだ当荘の権益を息隆景に与えることで,元就は沼田小早川家を隆景が嗣ぐ伏線としたのであろう。ただ,戦国期には,当荘から伏見稲荷大社への年貢上納はほとんど止まっていたらしく,年不詳6月24日の正親町天皇綸旨は,社納が遅滞していることで,隆景を厳しく譴責している(小早川家文書)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7421682
最終更新日:2009-03-01




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