ケータイ辞書JLogosロゴ 草井村(中世)


広島県>大和町

鎌倉期〜戦国期に見える村名安芸国豊田郡沼田【ぬた】新荘のうち仁治4年2月日の安芸沼田新荘方正検注目録写に「草井十四丁卅歩」とあり,その内訳は,神田や地頭給など除田1町5反小,佃と官物田計定田12町4反大30歩,所当米は公物12石9斗1升4合と地頭分8石4斗8升2合寛元3年正月17日の沼田新荘内吉名草井黒谷譲状写によると,吉名・草井・黒谷の地は沼田新荘地頭季平からその妻一期分を経てその子の七郎季泰に譲られ,さらに文応元年7月15日の平季康譲状写で,季泰はその地頭職を竹原の小早川政景の妻となった娘長春(如心)の子に譲るとしており,応長2年2月8日の小早川定心政景譲状案(実は如心の譲状か)によって小早川政宗(景宗)に譲られているしかし政景の実子ではないとする政景の娘の訴えにより,応仁5年に政宗の所職が幕府に没収され建長寺に寄進されてしまうやがて室町期になると,沼田小早川家の知行地として草井の名が再び見えるようになる永享5年6月日の小早川氏知行現得分注文写に,常建(則平)知行分として草井半分40貫文,持平預分として同じく草井半分40貫文とあり,同12年7月6日の管領細川持之施行状に持平知行分として草井村があげられており,以後平・敬平に伝えられている一方,享徳3年10月5日の小早川盛景自筆譲状によると,「草井黒谷」が盛景から弘景に譲られており,惣領家が伝領した草井村は近世の上草井村で,竹原小早川家が伝領したのは黒谷とあるところから下草井村と思われる文安4年8月日の仏通寺仏殿上棟馬人数注文写,寛正6年3月4日の仏通寺塔立柱馬人数注文写,文明12年10月の継目安堵御判礼銭以下支配状写,天正9年村山檀那帳などには草井を名乗る者たちの名が見える小早川家の被官として草井の地に拠った豪族であろう室町期と推定される年月日未詳の小早川氏一族知行分注文には「上草井 五十貫文」とある(小早川家文書)上草井には中畝城・中山坂城跡があり,下草井には草井木工の居城と伝える黒谷太郎丸城,草井藤一の居城と伝える掛城跡がある
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7421689
最終更新日:2009-03-01




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