ケータイ辞書JLogosロゴ 久芳保(中世)


広島県>福富町

 南北朝期〜戦国期に見える保名。豊田郡のうち。建武3年11月26日の足利尊氏寄進状に,京都本圀寺造営のため当保を寄進したことが見え(本圀寺文書),貞和3年5月の園城寺堂社造営料所支配状注文では園城寺新羅社の造営にあてられ,文和元年10月6日の足利義詮寄進状でも園城寺に寄進されている(園城寺文書)。正平6年12月23日の足利義詮下文写には疑問があるが,延文2年8月9日の細川頼之施行状写によれば,久芳保の地頭職半分は小早川胤平に与えられる(小早川家文書)。さらに至徳元年12月24日および至徳3年10月29日の将軍家御教書写などによると,義満が久芳郷半分を将軍家料所として小早川宗平に預け,残り半分を小早川春貞・兼平に安堵している(同前)。応永21年小早川常嘉から持平に譲られた所領に久芳保が見えるが,「大内押領ニ付不知行」と貼紙があり,応仁2年3月17日幕府奉行連署奉書などで平にその返付が認められている(同前)。大内氏の押領とともに,大内氏の家臣久芳氏の名が見え始める。応永11年9月23日の安芸国諸城主連署契状に久芳秀清の名が見え(毛利家文書),文明2年9月には大内政弘が久芳大炊助跡を久芳広時に(閥閲録145),同3年3月には「東西条久芳内弐拾貫足〈久芳四郎右衛門跡〉」を市来家朝に宛行っている(譜録)。文明3年4月28日の将軍家御教書によれば,同年には戦闘になり,惣領平と新荘椋梨家がともに久芳・戸野・郡戸・河内・造果の城郭を切り落とした(小早川家文書)。しかし同10年5月16日および7月2日の大内政弘袖判宛行状では,久芳貞国の遺跡を子の清勝に安堵し,同11年8月15日の宛行状では当地25貫文〈久芳新右衛門尉跡元平左衛門尉分〉を久芳永清に与え(久芳文書),同時に兄弟の久芳重正にも当地25貫文〈久芳左馬允跡,同大炊介跡〉を与えている(閥閲録145)。久芳氏の内では,貞国・清勝・清長の系統は絶えたらしいが,重正の系統は広時(重時)・明秀(明貞)・途重・賢重(兼重)と続き,永清の系統も賢直(兼保)に続くらしい。明応9年には清勝遺跡を子の清長に(久芳文書),永正4年には重時所領を子の明貞に(閥閲録145),それぞれ大内義興が相続を安堵,小早川氏の久芳進出は困難であった。一方,大永3年7月14日尼子経久書状では,平賀弘保に久芳400貫を与えており,平賀氏の進出が認められる(平賀家文書)。しかし天文15年3月29日には明秀から途重へ,さらに同19年7月1日には途重から兼重への相続を大内義隆が安堵しており,また彼らも大内氏に従って各地を転戦している。賢重(兼重)は毛利氏と陶氏の断交後も陶氏に従い,同23年10月5日に書出した給地坪付には久芳保内松弘名15貫文・末弘名10貫文・国弘半名10貫分とある。同年5月には私宅妻子を失いながらも陶氏に味方したが,11月25日の晴賢の感状を最後に毛利氏に降ったらしく,同24年2月19日毛利元就・隆元連署宛行状で地内貞宗名を与えられている(閥閲録145)。また久芳賢直の一族は早くから毛利氏に従ったようである。大内氏時代にも毛利氏を通じて,国弘半名・正永・徳前・為定・弘定などの知行のことが見え,同24年2月19日には賢重と同時に地内大田名を与えられている(同前117)。以後両家とも毛利氏に従った。毛利氏は,厳島合戦後弘治3年10月28日に久芳保内30貫文の地を井上元継に宛行い(同前78),元継・賢重・賢直ともに久芳惣郷を治め軍役を勤めるよう命じている。賢直の孫元直は天正18年に久芳村で69石余,慶長5年には149石余与えられた(同前89)。そのほか,国司元信もこの地に所領を持ち(同前55),文禄4年10月24日の平賀氏知行付立案によれば,平賀氏も112石余の所領があり,田数13町2反余・畠数2町8反余であった(平賀家文書)。伊勢神宮の御師村山家の檀那帳の天正9年分に,久芳賢直夫妻以下の久芳一族と井上元豊・綿貫宮内大夫・満蔵寺・児玉一郎左衛門の名が見える。「芸藩通志」によれば,城跡に堀城と犬丸城を記す。このほか,狐城・東西丁田城・福原城・仏が丸城・松田城跡がある。岡山八幡神社に合祀される以前には各所に八幡宮があったが,「兼右卿記」によると,元亀3年3月にこの地を訪れた吉田兼右は,四所八幡宮の社官綿貫直家に宮内大夫の官途を与え礼銭を受け取っている(大日料10-7)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7421739
最終更新日:2009-03-01




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