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「久保町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
久保町(近世~近代)
江戸期~現在の通称地名厳島神社西方の西町のうち白糸川の右岸,御手洗川との合流地点で,滝町の下流地域大内・毛利氏の支配下では久保小路・西久保路などと見え,近世初頭...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7421754]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 久保町(近世~近代) 江戸期~昭和43年の町名江戸期ははじめ窪町と書き,水戸城下上町の1町明治22年からは水戸市上市のうちで,昭和8年からは水戸市の町名水戸城の西に位置する町人町「新編常陸」によれば,町名は土地が低く北に砂窪と称する地もあったことによるといい,東は向井町,西は常葉村に接し,寺院は浄土真宗浄安寺当地の木戸は城下と郷地の界となった「水府地理温故録」によれば,当町並みの通りに125軒があって,町末の木戸外は常葉村で笠間に至る街道となっている天保年間の「水戸上下御町丁数調書」では町家は久保町1・2丁目に54戸とある明治維新直後下級士族が大勢移り住んだが,子孫はほとんど転出水戸藩の学者長谷川凹斎の子孫で,水戸市初代収入役長谷川尚寛が移り住んだのは明治中頃(水戸の町名)明治・大正期は寂しい町であったが,昭和に入ってから表通りに商店・事務所が進出昭和25年の世帯131・人口555(同前)昭和43年大工町3丁目となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」