ケータイ辞書JLogosロゴ 熊野村(中世)


広島県>熊野町

 戦国期に見える村名。安芸国安南郡のうち。かつての壬生官務家領阿土熊野保の熊野の地にあたると思われる。大永7年,尼子・大内両軍の戦いがこの地でも展開し,尼子方の熊野要害(熊野町城之堀の城山もしくは萩原の登岐城)が2月9日攻め落とされている。同年2月10日の天野興定合戦分捕手負注文に「芸州阿南郡熊野要害切落時……興定郎徒并僕従分捕手負人数注文」と見え(天野毛利文書),3月19日の弥富依重軍忠状(今仁文書)などから,この時の尼子方の主力は阿曽沼氏であったらしい。この時大内方ではほかに石井氏や脇氏が参戦し,大永7年2月13日の大内義興感状・同日付の大内氏奉行人奉書写(石井文書),大内義興感状(閥閲録62)などが残る。その後,当地は大内氏の支配する所となったようで,天文15年正月29日大内氏奉行人連署状で神代兼任に熊野荘の年貢から浮米10石を給与している(同前113)。なおこの時「西条熊野庄」とあり,以後当地を西条の内とする例が多い。城山(嵩山城)には菅田豊後が居城したと伝えるが(芸藩通志),天文20年に滅ぼされ,以後毛利氏の支配に属した。弘治元年の厳島合戦直前に野間氏が毛利氏に離反したため,3月26日の小早川隆景書状によると,阿曽沼氏が阿土・熊野の警戒を命じられている(譜録)。厳島合戦に勝利した後,翌弘治2年8月29日に毛利隆元は家臣に当地を分与している。同日の毛利隆元宛行状などで7貫500文・田1町7反小の地が中村次郎左衛門へ(岩国徴古館所蔵文書),同じく隆元宛行状などで10貫・田2町7反小(10石とも)の地が弘七郎次郎へ(閥閲録90),同じく10石の地が来島就親に(同前97),同じく15石の地が福原就理に与えられている(同前67)。また,同年10月28日の毛利氏年寄連署知行打渡状で熊谷信直に50貫の地が与えられている(熊谷家文書)。さらに,翌弘治3年11月7日の毛利隆元判物では,平佐就貞が熊野村の「草使」(代官)に任命されており(長府毛利文書),弘治4年5月7日の毛利隆元宛行状に熊野村は300貫の所と見え,毛利氏の直轄領もかなりあった(同前)。天正13年4月9日の毛利輝元安堵状によれば,就貞は天正13年にも代官を勤めていた(同前)。のち天正年間には当村の多くの地が厳島社に寄進され,当時の熊野村の様相を知る好個の資料を残している。天正15年9月30日の安芸国安南郡熊野村厳島社領名寄坪付は,前半を欠き厳島社領に限定されるという制約もあるが,土地保有者別に,その田地の所在地・田積・分銭が記されており,土地保有状況を知ることができる(野坂文書)。また天正20年3月25日の安芸国安南郡熊野村厳島社領人掃帳・同社家内侍領人掃帳には,家1軒ごとに居住者数を記しており,厳島社領70軒・183人の家族構成を知ることができるが,それは単婚小家族が中心であったようである。以後も熊野村における厳島社領は増加し続け,毛利氏時代の社領を後に書き上げた元和5年7月13日の厳島社社家供僧内侍三方給地等付立,同厳島社造営領大願寺分付立によると,当村内における同社領は年貢高で501石余にも及んだ(厳島野坂文書)。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7421758
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ