ケータイ辞書JLogosロゴ 倉橋(中世)


広島県>倉橋町

 鎌倉期から見える地名。安芸国安南郡のうち。嘉元3年4月と推定される摂籙渡荘目録に「倉橋庄 田廿六町二段四十歩〈舞人久世,為平等院舞装束料所知行之〉」とある。暦応5年正月の目録にも同じ記載が見え,平等院の舞装束料所として舞人久世が知行する摂関家領倉橋荘の存在を知る(九条家文書)。しかしその後倉橋荘に関する史料は見えない。下って,応仁元年7月,西軍に応じて上洛した大内政弘軍の「海賊衆先陣」に「ノウヘ クラハシ クレ ケコヤ」が見える(経覚私要鈔)。伊予国周敷郡北条郷の地頭多賀谷氏が海賊衆となり,南北朝期に北上して倉橋・蒲刈に本拠を移した。倉橋多賀谷氏が本拠とした倉橋本浦の丸子山は典型的海賊城である。康応元年足利義満の厳島参詣の際,音戸の瀬戸で多賀谷某が大内義弘遅参の由を伝えており(鹿苑院殿厳島詣記),南北朝末期には大内氏の支配に入っていたことが知られる。大永3年8月10日の東西条所々知行注文に「一 倉橋島三百貫文」と見え,大内氏分国に編入されていた(平賀家文書)。桂浜神社には周防国氷上山興隆寺僧無参の書写にかかる大般若経がある。その箱蓋裏には「享徳二癸酉」の墨書があり,大内氏から多賀谷氏に大般若経が与えられ,神社に奉納されたものと思われる。同神社には文明12年の棟札があり,「領主平朝臣〈弘重・貞光〉」の名が見える。大永初年頃,小早川弘平が,大内氏と対抗する神領方面へ派遣していた小早川水軍の将乃美備前守のもとへ増援軍として送られた警固衆に,能美・長浜・檜垣氏らとともに倉橋(多賀谷)右馬助が見える(乃美文書正写)。大永7年3月,厳島祭礼において,倉橋多賀谷氏の警固衆が神領衆と争って数人討たれ,救援にかけつけた蒲刈多賀谷兵部少輔も風雨のなかで水死するという事件があり(房顕覚書),倉橋・蒲刈両多賀谷氏の緊密な関係がうかがわれる。天文23年8月,仁保島を拠点とする陶方海賊衆白井越中守賢胤が倉橋で合戦し,「分捕手負軍忠状十一通」を陶晴賢に提出している(白井文書)。毛利方水軍に攻撃された多賀谷氏を支援したものと思われるが,陶方についた多賀谷氏は結局,毛利氏に滅ぼされた。戦国末期,倉橋島内の厳島社領の作職を所持していた倉橋勝吉は,社家に対し「一両年之事者,彼田悪敷候而,百姓等も不調候条延引仕候」と年貢納入の遅れを詫び,「我等御百姓ニ成候様ニ御連見被成候ハゝ可忝候」と親以来の作職安堵を懇望している(厳島野坂文書)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7421772
最終更新日:2009-03-01




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