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栗栖村(近世) 江戸期~明治初年の村名播磨国赤穂郡のうち有年栗栖【うねくるす】村とも称し,また東有年村を称したとも考えられる千種【ちくさ】川下流右岸もと宇喜多氏領慶長5年姫路藩領,同18年備前国岡山藩領,元和元年赤穂藩領,元禄14年幕府領,同15年からは赤穂藩領村高は,「正保郷帳」1,005石余うち田786石余・畑219石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに484石余「元禄郷帳」に上菅生村・下菅生村が各々古くは栗栖村と記されており,元禄年間までにこの2村を分村したと思われるなお,慶長播磨国絵図(天理図書館蔵)には当地が久留須町と記されるほか,「上すがう」「下すがう」も見える元禄年間には当村と上菅生・下菅生の3か村を合わせて東有年村と称したという(赤穂郡誌)宝永3年の御領分村々指出帳ではこの3か村を有年町と総称する山陽道の宿駅が西有年村から当村の一部である有年町に寛永年間頃に移されたと考えられる(赤穂市史)明治初年東有年村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
栗栖村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
栗栖村(近世) 江戸期~明治8年の村名豊後国大野郡一万田郷のうち岡藩領城山南西麓に位置する村高は「正保郷帳」188石余,うち田66石余・畑122石余,旱損がちで茅山がある「見稲簿」同高安永7年梨原組に属し,大庄屋安兵衛役宅の所在地(農民一揆)寛政3年76石余・免6ツ4分,村位は下(名面帳)「天保郷帳」188石余,「旧高旧領」112石余明治4年大分県に所属同8年中熊村・臼木村と合併,栗林村となる現在の大野郡大字栗林のうち... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
栗栖村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」