ケータイ辞書JLogosロゴ 栗原保(中世)


広島県>尾道市

 南北朝期〜戦国期に見える保名。御調郡のうち。のちには栗原五ケ荘ともいう。当初は国衙領であったが,平安末期に大炊寮の便補保となったらしい。大炊寮領。建武3年8月13日付足利尊氏御判御教書案(師守記貞和3年4月裏文書)に「備後国栗原保事,停止中沢五郎入道□□,守先例,随大炊寮之下知,可致其沙汰」とある。この頃,当保は後醍醐天皇方とみられる国人中沢五郎に押領されていたが,尊氏の命で停止されている。「師守記」の筆者中原師守の兄師茂は大炊寮頭の任にあり,師守も貞和元年3月以降,栗原保申次であった関係上,「師守記」には当保の記事が散見する。当保からは酒肴料・申次分・公文安堵料・御拝賀料銭などの名目で,銭貨のほか布・干魚・蝋燭・味噌などの土産品が中原氏に届けられ,また仕丁が交替で上洛した(師守記康永4年7月13日・16日・貞和3年正月29日条など)。現地には安芸入道円源・兵部入道了円・岩崎律師慶祐らの公文が置かれ,都との間を往来しては差配に携わった。貞和3年10月には久世次郎らが保内に打入り安芸入道住宅に放火したという。この頃には公文の現地支配も次第に不安定になっていた。同4年暮には毎月の熟食米勤仕が懈怠したとして朝廷は中原氏から当保を召上げる事態となったが,翌5年3月,当保は中原氏に返付され,5月には当時,鞆に留まっていた長門探題足利直冬の手で中原氏に打渡された。ところが,同年9月に直冬が高師直方の軍勢に追われて肥前国に逃れると,当保はたちまち守護代大平出羽権守の押領するところとなった(同前貞和3年11月5日・同5年2月28日・同3月23日・同5月29日・同10月20日条)。その後,文和元年9月,上洛した備後守護代が中原氏の雑掌に当保の打渡を約束し,一方,幕府の命によって備後国人杉原氏が当保に下向した(同前文和元年9月22日・24日条)。文和2年3月23日付杉原光房禁制状(浄土寺文書)には「備後国栗原・歌島浦々寺辺殺生禁断事」とあり,下向した杉原氏が当保を支配下に置いたらしい。ついで,明徳4年4月7日付備後国御料所注文(細川文書)に「栗原五ケ庄」と見える。この栗原荘は当保を指すとみられるが,すでに備後半国守護細川頼長の料所(守護領)となっており,やがて守護山名氏に引き継がれた。なお,永正14年12月の賀陽院大光明寺領諸国所々目録案(田中教忠氏旧蔵文書)にも「一同(備後)国栗原五カ庄支配分京定千疋事」とある。「師守記」によれば栗原保申次であった師守は「吉和栗原公文申次分」「御所崎安堵申次」「祓町安堵料」などの得分を得ており,栗原保には近世の栗原村のほかに,吉和・御所崎・祓町などが含まれていたとみられる。これに古くから大炊寮領であった歌島を合わせて,栗原保ないし栗原五カ荘と称したのであろう。ただし,祓町の比定地は未詳。また宝土寺鐘の長享3年銘文に「大日本備後州御調郡栗原保尾道之浦御所崎宝土寺」,光明寺鐘の延徳4年銘文に「備後州御調郡栗原保尾道御所崎光明寺」と記され,御所崎が当保に属したことが知られる(日本古鐘銘集成)。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7421793
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ