ケータイ辞書JLogosロゴ 呉保(中世)


広島県>呉市

 平安末期〜戦国期に見える保名。安芸国安南郡のうち。永暦元年と推定される6月28日の美福門院令旨に「安摩庄呉浦事」として「召取国司庁宣,成副庁御下文,遣僧正御許了,自彼定被奉送歟」と見え,呉浦は美福門院領安摩荘の一部とされている(高野山文書)。元暦2年正月9日の源頼朝下文に「呉保」が見え(石清水文書),美福門院領安摩荘の一部であったことがわかる。すでに長承元年,安摩荘年貢分は鳥羽上皇によって高野山西塔仏聖人供料に宛てられており(高野山文書),前記美福門院令旨は弁済を命じる国司庁宣と院庁下文を求める高野山の要請に基づくものと思われる。次いで元暦2年正月9日,石清水八幡宮領に対する平氏追討にことよせた武士の狼藉の停止を命じた源頼朝下文に「呉保」が登場する(石清水文書)。安摩荘呉浦と石清水八幡宮領呉保との関係は不明である。南北朝期の正平23年,北朝方に仁木義尹を撃退するため豊前から伊予に帰還した河野通直の軍勢に,二神・南方両氏(両氏とも伊予の豪族)が呉から参加している(予章記)。康応元年3月10日には,足利義満一行が厳島参詣の途上,「くれ」を通過している(鹿苑院殿厳島詣記)。文安3年2月12日の厳島社宝蔵財物注文に呉の宮原という住人が金泥法華経一部を寄進したことが見える(厳島文書)。室町期の呉は大内氏分国に含まれ,大永3年8月10日の安芸国東西条所々注文に「呉津三百貫」と見え,能美島,蒲刈島,倉橋島とともに「此四浦,西条之外也」とし(平賀家文書),寛正2年6月29日大内氏奉行人奉書に「従山口於御分国中行程日数事」として「呉島五日〈請文十五日〉」と記す(大内氏掟書)。呉の海賊衆(山本,檜垣,警固屋氏ら)は呉衆と呼ばれ,大内氏に属して各地を転戦している。応仁元年,西軍に応じて上洛する大内政弘軍の「海賊衆先陣」は「ノウヘ(ミ)クラハシ クレ ケコヤ」の衆であり(経覚私要抄),文明10年10月3日の豊前花尾城攻撃,同月26日の伊予河野通春救援などに「呉・蒲刈・能美三ケ島衆」が派遣されている(正任記)。戦国期に入っても,呉衆は大内氏の有力な水軍として活動している。大永3年の尼子経久の安芸侵攻により,呉地方も一時尼子方(矢野の野間氏が尼子方につく)の支配下に入ったが,同5年4月5日大内氏の将陶興房による反抗の一翼として,小早川水軍乃美備前守が「呉千束要害」(現在の自衛隊呉地方総監部,呉警備隊付近。近世の呉町にあたり,千足,洗足川がある。「芸藩通志」によれば総監部前方の堀切りを隔てた小山は城跡とつたえられる)を攻略し,地下に放火している。このとき呉衆は乃美備前守の軍忠を大内氏奉行人に注進しており,呉衆が尼子氏侵攻のときも大内氏にとどまって,乃美氏の千束要害攻略に参加していたことがわかる(乃美文書正写)。天文14年7月23日大内義隆は呉衆の山本弾正忠房勝に「呉保内弐拾壱貫余」を安堵し,同24年7月5日,息子四郎賢勝へ相続されているが(閥閲録169),房勝・賢勝の2代にわたって陶氏から偏諱を賜っており,陶氏との臣従関係の深さが知られる。毛利氏・大内(陶)氏断交ののち,天文23年,毛利元就は対陶戦略の一環として,小早川隆景に「呉・瀬戸」の城普請を命じている(譜録)。この時期,いったん毛利方に同意していた呉衆は,差し出した人質を犠牲に,山本賢勝が「呉惣衆中」を率いて大内(陶)方に復帰した(閥閲録169)。同24年3月15日,大内方警固奉行人白井越中守が「呉浦」で「敵船一艘」を打ち取っているが(白井文書),小早川水軍との戦闘によるものであろう。厳島合戦に大内(陶)方として参加した呉衆は知行地を没収され,多くは小早川家中に宛行われたが(閥閲録95・三原志稿),呉衆の一部は瀬戸城を拠点とする小早川水軍乃美(浦)氏にめしかかえられた(閥閲録169)。弘治4年4月9日には呉保のうち宮原・室瀬の田畠5貫文が木村五郎左衛門に打渡され(芸備郡中士筋者書出),さらに天正2年2月9日小早川隆景は岡就栄に加恩として「呉保五名之内五拾貫之地」を宛行っている(閥閲録96)。また,天正18年正月19日の乃美景継宛内藤元栄書状写に「佐東郡五ケ之内,呉御給地代所事,度々被仰越趣承届候」とあり,当地に乃美氏の給地があったことが知られる(小早川家文書)。なお,年未詳小早川隆景書状は乃美(浦)兵部宗勝にあてて「呉表城番」を誰にするか相談している(閥閲録11)。「芸藩通志」によれば,江戸期の和庄・宮原・庄山田3か村を「呉庄」と称したという。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7421804
最終更新日:2009-03-01




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