ケータイ辞書JLogosロゴ 黒淵村(中世)


広島県>世羅町

 鎌倉期〜戦国期に見える村名。備後国世羅郡大田荘大田方山中郷のうち。黒鞭とも書く。貞応2年11月の地頭三善康継・康連連署陳状に「山中郷内黒淵村事」とある。村内には地頭別作田があったが,大田荘内でも最薄地(最も収穫の少ない土地)であったという。嘉禎2年には一荘の検注が行われたが,その結果,当村では作田取帳・同引付が各1帳作られている。この検注では当村の公田は1町余に過ぎなかったが,鎌倉末期には見作田50余町ともいわれている。嘉元年間には「黒鞭村地頭別給」20町が地頭別作か地頭雑免かをめぐって山中郷地頭富部信連と寺家(高野山)の雑掌の間で相論が起こった。これにつき徳治2年には村内別作の所当を領家に弁済すべきことが幕府の裁許で決められたが,未進が続いたため,元徳2年閏6月に改めて寺家雑掌は黒淵別作地頭上田善綱代官と和与を結んだ。その結果,友包・貞宗・石淵・堂迫・仲新大夫名など村内の5名(田5町1反・畠6反余・山野・屋敷地)の下地が領家に避渡されている。なお「芸藩通志」巻104の黒淵村絵図には村域の南に堂迫谷・堂迫山,北に石淵山が見える。南北朝期以降,大田荘は守護や在地武士の押領を被った。観応2年6月,足利尊氏は当村ほかに対する守護・甲乙人らの乱入を停止し,下地を寺家雑掌に沙汰付すべきことを命じたが,寺家の一円支配はもはや不可能であった。応安4年5月には高野山は地頭大田直康と契約を結んで「寺町郷内庶子京丸黒淵之分年貢」が無沙汰の際には寺家代官が直接収納することとしたが,年貢未進は続いたらしい。永徳元年10月の守護山名時義書状によれば大田荘では下地の半済が行われており,当村は寺家分とされている(高野山文書)。応仁の乱後には守護山名氏の領国の中に組み込まれ,やがて戦国大名毛利氏の領国下に入った。天正14年2月12日付山内隆通知行書立案(山内首藤家文書)には「一三代神原参百貫,但此内百五拾貫滑良ニ被下候,備後之内本領黒淵萩原,其外依不知行,元就様・隆元様ヨリ如此候」とあり,当地は滑良氏の本領となっていたが,この頃には不知行の地となっている。なお地内獅子田の金福寺跡には黒淵地頭一族の墓と思われる五輪塔群や経塚がある。黒淵八幡神社には応永2年銘の棟札があり,桑原方地頭三善康連の名が見える(世羅郡誌)。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7421818
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ